い。僕は人の攻撃をいくらでもきくが、大概採用しない事にしました。その代りほめた所は何でも採用するという憲法です。
 何だかムズムズしていけません。学校なんどへ出るのが惜しくってたまらない。やりたい事が多くて困る。僕は十年計画で敵を斃《たお》す積りだったが近来これほど短気な事はないと思って百年計画にあらためました。百年計画なら大丈夫誰が出て来ても負けません。木曜に入らっしゃい。ハムは大好物だから大に喜んで食います。二十日までにかきます。
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   十一月十一日[#地から3字上げ]夏目金之助
     虚子先生
      ○
明治三十九年十一月十七日(封書)
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 もうやめます。陳列すると際限がない。仕舞へ行くほどゾンザイになる。一、二分に一句位宛出来る。このうちでもっとも上等の奴を二つばかりとって頂戴。
 あしたは明治大学がやすみになって嬉しいから、御降《おさが》りをちょっと作りました。
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   十六日夜[#地から3字上げ]金
     虚子先生
      ○
明治三十九年十一月二十四日(封書)
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 拝啓 伝四先生の原稿は先ほど送りました。手を入れると申しても大変ですから大体あれでいいでしょう。校正の時でも気がついた所を直してやって下さい。『ホトトギス』の趣向はないのだが、どうも長くなりそうでそうして頗る複雑な奴が書いて見たい。所がどうも時間が足りないですがね。そこが困ります。もし充分の時日があって趣向が渾然《こんぜん》とまとまれば日本第一の名作が来年一月の『ホトトギス』へあらわれるのだが惜しい事です。
 いそがしくて困ります。昨夜は大変面白かった。毎木曜にああ猛烈な論戦があると愉快ですな。
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      ○
明治三十九年十二月四日(葉書)
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 拝啓 明後日は「千鳥」の作者が新作をもってくる由。どうか御出席の上朗読を願いたいものですが如何《どう》でしょう。
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   十二月四日[#地から3字上げ]夏目金之助
     高浜清様
      ○
明治三十九年十二月十日(封書)
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 拝啓 いよいよ本日曜から『ホトトギス』に取りかかりました。学校があるから廿日までに出来るかどうか受合えない。然し出来るだけかいて見ましょう。時があれば傑作にして御覧に入れるがそうも行くまい。廿一日の朝には全部渡さなくてはいけませんか。ちょっときかして下さい。正月発行期日が後れても職人が働かないから同じ事でしょうか。
 僕の家主が東京へ転任するに就て僕に出ろという。甚だ厄介である。今時分転任せんでもの事であるのにと思う。然し向《むこう》は所有権があるから出なければならない。君どうですか、いい所を知りませんか。あったら移りたいから教えて下さい。あれば今年中に移ってしまう。頓首。
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   十二月九日夜[#地から3字上げ]夏目金之助
     虚子先生座下
      ○
明治三十九年十二月十一日(封書)
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「正義組」拝見趣向はいいですがあれでは物足りませんね。あれをもっとキュッと感じさせなくっては短篇の生命がありません。悪口を申して失礼です。こんなものは今の小説家がみんなやります。而してもっとうまくやります。これよりは写生文の方がよいように思われます。然し屑籠へ入れる必要はないでしょう。寺田が短篇をよこしました。これもあまり感服しません。然し他人はほめるかも知れない。とにかく御覧に入れます。以上。
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   十二月十一日[#地から3字上げ]金
     虚子様
      ○
明治三十九年十二月十六日(葉書)
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「欠《あく》び」御出来《ごしゅったい》のよし。小生ただ今向鉢巻大頭痛にて大傑作製造中に候。二十四日までに出来上る積りなれどただ今八十枚の所にて、予定の半分にも行って居らぬ故どうなる事やら当人にも分りかね候。出来ねば末一、二回分は二十日以後と御あきらめ下さい。
 小生立退きを命ぜられこれまた大頭痛中に候。今度の小説は本郷座式で超ハムレット的の傑作になるはずの所御催促にて段々下落致候。残念千万に候。
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[#地から3字上げ]夏目金之助
     高浜清様
      ○
明治三十九年十二月十六日(葉書)
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 只今頗ル艶《えん》ナ所ヲカイテイル。
 表題ハ実ハキマラズ。「野分《のわけ》」位ナ所ガヨカロウト思イマス。ドウデショウ。中々人ガキタリ、何カシテ一気ニ書ケナイ。
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[#地から3字上げ]夏目金之助
     高浜清様
      ○
明治三十九年十二月二十三日(葉書)
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 拝啓 蝶衣《ちょうい》(高田四十平《たかだよそへい》)君の[#「君の」はママ]所ハ淡路釜口デスカ。
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[#地から3字上げ]夏目金之助
     高浜清様
      ○
明治三十九年十二月二十六日(葉書)
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 廿七日引き越します。
 所は本郷西片町十ロノ七
であります。仲々まずい所です。喬木《きょうぼく》を下って幽谷ニ入ル。
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[#地から3字上げ]夏目金之助
     高浜虚子様

    七

 明治四十年頃からの漱石氏はますます創作に油が乗って来て、その門下に集まって来た三重吉、豊隆《とよたか》、草平《そうへい》、臼川《きゅうせん》その他の人々に囲繞《いじょう》せられて文壇に於ける陣容も整うて来た事になった。その時に当って朝日新聞から社員として傭聘《ようへい》するという話が始まって、遂に氏は意を決して大学講師の職を辞して新聞社員として立つ事になった。同時に氏は素人の域を脱して黒人《くろうと》の範囲に足を踏ん込んだ事になったので、今までは道楽半分であった創作が今度は是非とも執筆せねばならぬ職務となった。氏の立場は堂々たるものになったと同時に気ままとか楽しみとかいうゆとりは無くなってしまった。が氏の謡の稽古を思い立ったのもその頃からの事である。氏は熊本に居る頃加賀宝生を謡う人に二、三十番習った事があったので、誰か適当な宝生流の師匠はなかろうかと言われた時に、私は松本金太郎翁を推挙したのであったが、遂にそれは宝生新氏に落着いて私らと同流の下宝生を謡うことになったのであった。氏はまた晩年になって絵を書いたり詩を作ったりする模様であった。氏も道楽なしには日を暮す事の出来ない人であったようである。大学の先生をしている間は創作が道楽であった。創作が本職になってからは謡や絵や詩が道楽となった。
 氏が大学を辞して朝日社員となって間もなく早稲田大学から氏を傭聘したいという申込みがあった。もっともそれは表向きではなく島村抱月氏から片上天弦《かたがみてんげん》氏を通じ私から漱石氏の意向を聞いてくれぬかという事であった。私はその事を漱石氏に話した時に氏は次の如く答えた。
「一度大学を辞した以上自分は最早大学に復帰する考えはない。もし今度何処かの学校に関係を持たねばならぬような場合が生じたら、その節は一番に早稲田大学の方に交渉を開く事にしよう。その点だけは堅く約束して置くが、今はそういう考は持たない。」とこういう返事であった。
 漱石氏はまた朝日新聞社員となった以上新聞のために十分の力を尽して職責を空しくしないようにしなければならぬという強い責任感を持っていた。そこで新聞社の方では他の雑誌、少くともその出身地である『ホトトギス』に時々稿を寄せる位の事は差支ない事としていたらしかったが――これは私が渋川玄耳《しぶかわげんじ》君から聞いた事であった――漱石氏は他の雑誌に書くとそれだけ新聞に書くべき物を怠るようになるという理由から新聞以外には一切筆を取らないと定めたようであった。これは創作が道楽でなくなって職業となり原稿紙に向うことに興味の念の薄くなって来た以上止むを得ぬ傾向と言わねばならなかった。私もこれを強いて要望する気にもならなかった。
 私が『国民新聞』のために国民文学を創《はじ》めた当時は能く漱石氏の談話筆記を紙上に載せた。また漱石氏を芝居に引ぱって行ってその所感を聞きとるような事もした。しかしそれも間もなく『東京朝日』紙上に朝日文芸欄が出来るようになってから中絶せねばならなかった。それは新聞そのものの立場から国民文学と朝日文芸とは自然対立しなければならぬ性質のものであったからである。数年前の漱石氏は創作の方面の直接の友としては全く私一人を有しているに過ぎなかったのであったが、この頃の漱石氏はその数多い門下生諸君と朝暮接触してそれらの人々のために謀ってやらねばならぬ止むを得ざる立場に立っていた。朝日文芸欄もそれらの要求から生れ出たものであったらしく、それが私の受持っている仕事と対立せねばならぬようになった事は残念なことであった。けれどもそれらは決して私と漱石氏との間を疎々《うとうと》しくするほどの大事件ではなかった。漱石氏の家で毎週催おされる木曜会には私は主な出席者の一人であった。漱石氏は常に私を激励する事を怠らなかった。
 私が明治四十三年にチブスに罹って健康を損じて以来私は生活を一変せねばならぬ事になった。私は国民新聞社を辞して衰滅に傾きつつあった『ホトトギス』を私一人の力で盛り返す事に尽力すべく決心したが、健康が何時も不十分であった上に住居を鎌倉に移したために従来頻繁に往来していた旧友諸君と自然疎々しくなる傾きになってしまった。いわゆる「出来るだけ借銭をするのと同じように出来るだけ義理を欠く」方針の下に、東京に出て来て『ホトトギス』のために仕事をしてしまえば直ちに鎌倉に引き挙げ、何人を訪問する事もしなかった。自然漱石氏の家を訪《と》わぬ事も久しい間の事であった。漱石氏が修善寺で発病した時、同地にこれを見舞いその後胃腸病院に入院している時に一度これを見舞い、尚おその南町の邸宅を一両度訪問した以外殆ど無沙汰をし続けにしてしまった。漱石氏もまた鎌倉の中村|是公《これきみ》氏の別荘に遊びに行く序《つい》でに一度私の家の玄関まで立寄ってくれた事があった位の事であった。漱石氏の最後の手紙に、
「身体やら心やらその他色々の事情のためつい故人に疎遠に相成るようの傾」云々とあるのは独り漱石氏の感懐のみではない。かくの如くして私は氏が危篤の報に接して駆け付けた時、病床の氏は、後に聞けばカンフル注射のためであったそうであるが、素人目には未だ絶望とも思われぬような息をついていたので、私は医師の許を受けて、
「夏目さん、高浜ですが、御難儀ですか。」と声を掛けた。
「ああ、有難う、苦しい。」というような響きが私の耳に聞きとれた。それは苦し気の呼吸の中に私の耳にそう聞えた響きに過ぎなかったかも知れない。その後また、
「水、水。」と二、三遍繰返して言った言葉を私は確かに聞きとった。看護婦もその声に応じて水を与えたのであった。私はその臨終の模様から通夜の時の容子などを書きたいという考がないでもないが、これは別に人がある事と考えるから此処《ここ》には略する事として、これでこの稿を終る。左には明治四十年から以後の氏の私に当てた手紙の全部を掲載する。ここに掲げる明治四十二年以後の手紙の少ないのは、もともと受取った手紙の少ないのでもあろうが、その頃から私は人の手紙を保存するという煩しさを感じ始めたので、大概の物は反古にしてしまった。氏の手紙も大分それがあったことと思う。此処に収録した二通はものに紛れて残っていたものである。

(時日不明、明治四十年一月と推定す。)(葉書)
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 拝啓。来る三日木曜日につき大に諸賢を会し度と存候。かねて松根東洋城《まつねとうようじょう》が御馳走を周旋するといっていたから手紙を出して置きました。どうか来てまぜ返して下さい。
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