うちで色々に変化して居る。然し根が呑気《のんき》の人間だから深く変化するのじゃない。圭《けい》さんは呑気にして頑固なるもの。碌さんは陽気にしてどうでも構わないもの。面倒になると降参してしまうので、その降参に愛嬌があるのです。圭さんは鷹揚でしかも堅くとって自説を変じない所が面白い。余裕のある逼《せま》らない慷慨《こうがい》家です。あんな人間をかくともっと逼った窮屈なものが出来る。また碌さんのようなものをかくともっと軽薄な才子が出来る。所が「二百十日」のはわざとその弊を脱して、しかも活動する人間のように出来てるから愉快なのである。滑稽が多過ぎるとの非難ももっともであるが、ああしないと二人にあれだけの余裕が出来ない。出来ないと普通の小説見たようになる。最後の降参も上等な意味に於ての滑稽である。あの降参が如何にも飄逸《ひょういつ》にして拘泥しない半分以上トボケて居る所が眼目であります。小生はあれが掉尾《とうび》だと思って自負して居るのである。あれを不自然と思うのはあのうちに滑稽の潜んで居る所を認めないで普通の小説のように正面から見るからである。僕思うに圭さんは現代に必要な人間である。今の青年は
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