に私がまごまごして附け兼ねている間《ま》に氏はグングンと一人で数句を並べたてて行った。それから続いて「冬《ふゆ》の夜《よ》」「源兵衛《げんべえ》」なぞの、今度は氏一人で作った俳体詩が出来た。殊に「冬の夜」以下は十七字十四字の長短句の連続でなくて、五五の調子の連続であったり、五七の調子の連続であって、俳体詩という名はありながらも、最早《もはや》連句の形を離れた自由な一篇の詩であった。
 この頃われら仲間の文章熱は非常に盛んであった。殆ど毎月のように集会して文章会を開いていた。それは子規居士生前からあった会で、「文章には山がなくては駄目だ。」という子規居士の主張に基いて、われらはその文章会を山会と呼んでいた。その山会に出席するものは四方太、鼠骨、碧梧桐、私などが主なものであった。従来芝居見物などに誘い出す度《た》びに一向乗り気にならなかった漱石氏が、連句や俳体詩にはよほど油が乗っているらしかったので、私はある時文章も作ってみてはどうかということを勧めてみた。遂に来る十二月の何日に根岸の子規旧廬で山会をやることになっているのだから、それまでに何か書いてみてはどうか、その行きがけにあなたの宅へ
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