たちの謡を聞いていたが、済んでから、先生の謡はどうかしたところが大変|拙《まず》いなどと漱石氏の謡に冷評を加えたりした。そうすると漱石氏は、拙くない、それは寅彦に耳がないのだ、などと負けず我慢を言ったりなどした。
「僕も洋行することになるのだったから、謡なんか稽古せずに仏蘭西《フランス》語でも習っておいたらよかった。」と漱石氏は言った。私は謡と仏蘭西語とを同格に取り扱うような氏の口吻《こうふん》をその時不思議に思ってこの一語を今も牢記している。その時氏はまた美しいペーパーの張ってある小さい鑵の中から白い粉を取り出して、それを掌《てのひら》にこすりつけて両手を擦り合わした。そうするとその白い粉がやや黒味を帯びた固まった粉になって下に敷いてある紙の上にこぼれ落ちた。
「それは何ですか。」と私は不思議そうにながめ入った。
「これは手の膏《あぶら》をとるのですよ。僕は膏手だから。」と漱石氏は応えた。
「西洋に行くとそんなものが必要なのですか。」
「貴婦人と握手などする時には膏手では困りますからね。」
そんな会話をしたことを私は覚えている。またこの日私は西洋料理を食った時に、氏が指で鶏の骨をつ
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