た。これは漱石氏が留別《りゅうべつ》の意味でしてくれた御馳走であった。その帰り道私は氏の誘うがままに連立ってその仮寓に行った。そうして謡を謡った。席上にはその頃まだ大学の生徒であった今の博士寺田寅彦君もいた。謡ったのは確か「蝉丸《せみまる》」であった。漱石氏は熊本で加賀宝生を謡う人に何番か稽古したということであった。廻し節の沢山あるクリのところへ来て私と漱石氏とは調子が合わなくなったので私は終に噴き出してしまった。けれども漱石氏は笑わずに謡いつづけた。寺田君は熊本の高等学校にいる頃から漱石氏のもとに出入していて『ホトトギス』にも俳句をよせたり裏絵をよせたりしていた。それが悉く異彩を放っていたので、子規居士などもその天才を推賞していた。そこで寺田寅彦君という名前は私にとって親しい名前ではあったのだが、親しく出合ったのは確かこの時がはじめてであった。近時は一体に文学者が雅号を用いぬことが流行するが、寺田君はその頃から寅彦で押し通していた。坂本君は本名の四方太《よもた》を四方太《しほうだ》と読ませていたが、寅彦君は本名そのまま寅彦で押し通したのであった。その日寅彦君は初めから終いまで黙って私
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