ような傾きがないでもなかった。
「あまり甚だしい楽屋落は困るけれども、少し位はかえって読者にとって興味があるかもしれない。」などと言って居た。子規居士はじめわれらの仲間のものに較べて遥かに後輩である読者などは、先輩としての子規居士やその他同人らの消息を知ることは多少の興味であったに相違ないが、子規居士の同輩である漱石氏などから見たらば、定めし癪《しゃく》に障る記事が多かったろうと思う。殊にその頃のわれらは未だ二十《はたち》台の若さであったので、大した分別もなく下らぬことを言い合ってよろこんでいたものであった。そんなことが記事になって出るのを見ると漱石氏などは定めて歯の浮くような感じがしたことであったろう。
 それから漱石氏が文部省から二年間英国留学を命ぜられて洋行するようになったのは明治三十三年の九月のことであった。それに就いて漱石氏は何時上京したのか、それらのことも今ははっきりと記憶に残って居らぬ。ただある日漱石氏は猿楽町の私の家を訪問してくれて、「どこかへ一緒に散歩に出かけよう。」と言った。それから二人はどこかを暫く散歩した。そうして或る路傍の一軒の西洋料理屋に上って西洋料理を食っ
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