って、後には『銀杏《いちょう》』という雑誌まで出して中々盛んなものであった。文に常松迂巷とあるのは池松|迂巷《うこう》の間違いである。私はその当時雑誌発行というような事務に馴れなかった上に健康が十分でなかったので手紙などは怠り勝ちであった。もっともそれは今日になってもなおつき纏《まと》っている私の病所であるが、漱石氏などはその頃から決して人の手紙に返事を怠るような人ではなかった。殊に人に物を頼まれたりした場合は必ずその面倒を見ることを怠らなかった。漱石氏が熊本を去って後に紫溟吟社の人々も四散してしまってまた昔時の面影を見ることが出来ないようになったが、それも漱石氏のような、積極的に会の世話をしないまでも、何かと会員の面倒を見てやる中心人物がなくなったということが主な原因であったろう。次に『ホトトギス』の記事に就ての警告は、消息欄に書いた記事についての非難であった。どんな記事であったか今それを調べて見るのも馬鹿馬鹿しいような事柄であるが、消息は主として同人仲間の消息を漏らすのであったので自然楽屋落ちになることは止むを得なかったことである。子規居士は格別それを嫌いもせず、寧ろそれをよろこぶ
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