|竹越三叉《たけこしさんさ》氏が『世界の日本』という雑誌を出して居って、その文芸欄に我ら仲間の俳句が出たり、子規居士が我ら仲間の三、四人を批評する文章を載せたりしていた。それを言ったものである。その我ら仲間の批評というのは今俳書堂から出版している『俳句界四年間』の中《うち》に収録してあるはずである。私の句が難渋云々とあるのはその頃私はいわゆる極端な新傾向であって、調子も五七五では満足せず、盛にべく[#「べく」に白丸傍点]という字などを使用したものであった。当時碧梧桐君の文章のうちにも、
「乱調は虚子これを創《はじ》め云々」などと言って居る。今から考えると可笑《おか》しいようである。漱石氏はその乱調を批難しているのである。それからこの手紙の末段を読むに到って、漱石氏がその頃案外俳句に熱心であったことに一驚を喫するのである。実はその頃の私たちは俳句に於ては漱石氏などは眼中になかったといっては失礼な申分ではあるが、それほど重きに置いていなかったので、先輩としては十分に尊敬は払いながらも、漱石氏から送った俳句には朱筆を執って○や△をつけて返したものであった。そこで漱石氏の乱調に対する批難もそれ
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