を知っているのですか。」と漱石氏は不思議そうに私に訊《き》いた。
「あれは『風流懺法』の中に書いた松勇《まつゆう》という舞子です」と私は答えた。松勇らの一群は流るる水のように灯の下を過ぎて何処《どこ》かに消えてしまった。今演ぜられつつある踊が一段落となって今の見物人が追い出されたために繰込むべく待合わしている此の待合室の客は刻々に人数《にんず》を増して来た。ガラス張りの戸棚の中《うち》には花魁《おいらん》の着る裲襠《しかけ》が電燈の光を浴びて陳列してあった。そのガラスの廻りにへばりついている人には若い京都風の男もあれば妻君を携帯している東京風の男もあった。それらの群集の中に手持不沙汰に突立っている一人の西洋人を見出したときに漱石氏は「あれはウッドでないか。」と口の中で呟くように言った。この待合室に這入った後の漱石氏はまた万屋の閾をまたいだ後の漱石氏と同じようにその顔面の筋肉は異常に緊きしまっているように思われたが、この時私はつかつかとその西洋人の方に進んで行く漱石氏の姿を認めた。
「アア、ユウ、ウッド?」という極めて鋭い漱石氏の発音が私の耳を擘《つんざ》くように聞こえた。それと同時に私
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