いよう》を再発して死を早めたのはツグミの焼鳥を食ったためだとかいう話があったのによるのであろう。

    二

 明治二十九年の夏に子規居士が従軍中|咯血《かっけつ》をして神戸、須磨と転々療養をした揚句《あげく》松山に帰省したのはその年の秋であった。その叔父君にあたる大原氏の家《うち》に泊ったのは一、二日のことで直ぐ二番町の横町にある漱石氏の寓居に引き移った。これより前、漱石氏は一番町の裁判所裏の古道具屋を引き払って、この二番町の横町に新らしい家を見出したのであった。そこは上野という人の持家であって、その頃四十位の一人の未亡人が若い娘さんと共に裏座敷を人に貸して素人下宿を営んでいるのであった。裏座敷というのは六畳か八畳かの座敷が二階と下に一間ずつある位の家であって漱石氏はその二間を一人で占領していたのであるが、子規居士が来ると決まってから自分は二階の方に引き移り、下は子規居士に明け渡したのであった。
 私はその当時の実境を目撃したわけではないが、以前子規居士から聞いた話や、最近国へ帰って極堂《きょくどう》、霽月《せいげつ》らの諸君から聞いた話やを綜合して見ると、大体その時の模様の想像
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