はつくのである。子規居士は須磨の保養院などにいた時と同じく蒲団《ふとん》は畳の上に敷き流しにしておいてくたびれるとその上に横《よこた》わり、気持がいいと蒲団の上に起き上ったり、縁ばな位までは出たりなどして健康の回復を待ちつつあったのであろう。それから須磨の保養院に居る頃から筆を執りつつあった「俳人蕪村」の稿を継ぎ、更に「俳諧大要」の稿を起すようになったのであった。子規居士が帰ったと聞いてから、折節帰省中であった下村|為山《いざん》君を中心として俳句の研究をしつつあった中村|愛松《あいしょう》、野間|叟柳《そうりゅう》、伴狸伴《ばんりはん》、大島|梅屋《ばいおく》らの小学教員団体が早速居士の病床につめかけて俳句の話を聞くことになった。居士は従軍の結果が一層健康を損じ、最早《もは》や一図に俳句にたずさわるよりほか、仕方がないとあきらめをつけ、そうでなくっても根柢からこの短い詩の研究に深い注意を払っていたのが、更に勇猛心を振い興して斯道《しどう》に力を尽そうと考えていた矢先であったので、それらの教員団体、並びに旧友であるところの柳原極堂、村上霽月、御手洗不迷《みたらいふめい》らの諸君を病床に
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