楽半分であった創作が今度は是非とも執筆せねばならぬ職務となった。氏の立場は堂々たるものになったと同時に気ままとか楽しみとかいうゆとりは無くなってしまった。が氏の謡の稽古を思い立ったのもその頃からの事である。氏は熊本に居る頃加賀宝生を謡う人に二、三十番習った事があったので、誰か適当な宝生流の師匠はなかろうかと言われた時に、私は松本金太郎翁を推挙したのであったが、遂にそれは宝生新氏に落着いて私らと同流の下宝生を謡うことになったのであった。氏はまた晩年になって絵を書いたり詩を作ったりする模様であった。氏も道楽なしには日を暮す事の出来ない人であったようである。大学の先生をしている間は創作が道楽であった。創作が本職になってからは謡や絵や詩が道楽となった。
 氏が大学を辞して朝日社員となって間もなく早稲田大学から氏を傭聘したいという申込みがあった。もっともそれは表向きではなく島村抱月氏から片上天弦《かたがみてんげん》氏を通じ私から漱石氏の意向を聞いてくれぬかという事であった。私はその事を漱石氏に話した時に氏は次の如く答えた。
「一度大学を辞した以上自分は最早大学に復帰する考えはない。もし今度何処か
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