うちで色々に変化して居る。然し根が呑気《のんき》の人間だから深く変化するのじゃない。圭《けい》さんは呑気にして頑固なるもの。碌さんは陽気にしてどうでも構わないもの。面倒になると降参してしまうので、その降参に愛嬌があるのです。圭さんは鷹揚でしかも堅くとって自説を変じない所が面白い。余裕のある逼《せま》らない慷慨《こうがい》家です。あんな人間をかくともっと逼った窮屈なものが出来る。また碌さんのようなものをかくともっと軽薄な才子が出来る。所が「二百十日」のはわざとその弊を脱して、しかも活動する人間のように出来てるから愉快なのである。滑稽が多過ぎるとの非難ももっともであるが、ああしないと二人にあれだけの余裕が出来ない。出来ないと普通の小説見たようになる。最後の降参も上等な意味に於ての滑稽である。あの降参が如何にも飄逸《ひょういつ》にして拘泥しない半分以上トボケて居る所が眼目であります。小生はあれが掉尾《とうび》だと思って自負して居るのである。あれを不自然と思うのはあのうちに滑稽の潜んで居る所を認めないで普通の小説のように正面から見るからである。僕思うに圭さんは現代に必要な人間である。今の青年は皆圭さんを見習うがよろしい。然らずんば碌さんほど悟るがよろしい。今の青年はドッチでもない。カラ駄目だ。生意気なばかりだ。以上。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から3字上げ]金
虚子先生
[#ここから1字下げ]
能の事難有存じます。やはり九段であるのですか。いつあるのですか。ちょっと教えて下さい。正月は何かかいて上げたいと思います。然し確然と約束も出来かねます。まあ精々かく方にして置きましょう。
[#ここで字下げ終わり]
○
明治三十九年十月十三日(封書)
[#ここから1字下げ]
拝啓 昨日は失敬本日学校でモリスに聞いて見た所二十八日の喜多《きた》の能を見に行くから枡《ます》を一つ(上等な所。あまり舞台が鼻の先にない所を)とってもらいたいという事であります。どうか願います。それから時間は午前八時頃から五時位までですか、喜多の番地はどこでしたか、ちょっと教えて下さい。今度の木曜にも入らっしゃいな。四方太も来るかも知れない。小生元来呑気屋にて大勢寄って勝手な熱を吹いてるのを聞くのが大好物です。
森田が「千鳥」をよんで感心して来ました。森田は一頁五十銭で飜訳をして
前へ
次へ
全76ページ中47ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
高浜 虚子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング