ぎていた。
 この「我[#「我」に「(ママ)」の注記]輩は猫である」――漱石氏は私が行った時には原稿紙の書き出しを三、四行明けたままにしておいて、まだ名はつけていなかった。名前は「猫伝」としようか、それとも書き出しの第一句である「吾輩は猫である」をそのまま用いようかと思って決しかねているとの事であった。私は「吾輩は猫である」の方に賛成した。――は文章会員一同に、
「とにかく変っている。」という点に於て讃辞を呈せしめた。そうして明治三十八年一月発行の『ホトトギス』の巻頭に載せた。この一篇が忽ち漱石氏の名を文壇に嘖々《さくさく》たらしめた事は世人の記憶に新たなる所である。
 漱石氏の機嫌が悪かったということは学校に対する不平が主なものであったろう。そういう場合に、連句俳体詩などがその創作熱をあおる口火となって、終《つい》に漱石の文学を生むようになったということは不思議の因縁といわねばならぬ。「猫」を書きはじめて後の漱石氏の書斎にはにわかに明るい光りがさし込んで来たような感じがした。漱石氏はいつも愉快な顔をして私を迎えた。
 はじめ「猫」は一回で結末にしてもよく、続きを書こうと思えば書けぬこともないと話していたが、評判が善かったので続いて筆を取ることになった。また「猫」の出た『ホトトギス』は売行《うりゆ》きがよくって、「猫」の出ない『ホトトギス』は売行きが悪かったので、此方《こちら》からも出来るだけ稿を続けることを希望した。
『帝国文学』や『中央公論』や『新小説』やその他各種の雑誌から氏に寄稿を依頼するようになったので氏は一躍して多忙な作家になった。『帝国文学』の「倫敦塔《ろんどんとう》」『ホトトギス』壱百号の「幻影《まぼろし》の盾《たて》」などを始めとして多数の作が矢つぎ早に出来た。いずれも批評家が筆を揃えて推賞した。明治三十八年中に氏から私に寄越した手紙で残っているものは次の五通である。駒込千駄木町五十七番地に寓居の時である。

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 啓上 文章会開会の議敬承仕候。小生も今月末までには「猫」のつづきをかく積りに候。会日は九月三十日が土曜につき、同日|午《ひる》からとしたら、如何かと存候。就ては会場の儀、今まで小生宅にて催うし候処、細君アカンボ製造中にて随分難儀そうに見受候に就ては、今度はちょっと御免蒙り、どこかほかへ持って行きたしと存候、会員の宅で
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