に私がまごまごして附け兼ねている間《ま》に氏はグングンと一人で数句を並べたてて行った。それから続いて「冬《ふゆ》の夜《よ》」「源兵衛《げんべえ》」なぞの、今度は氏一人で作った俳体詩が出来た。殊に「冬の夜」以下は十七字十四字の長短句の連続でなくて、五五の調子の連続であったり、五七の調子の連続であって、俳体詩という名はありながらも、最早《もはや》連句の形を離れた自由な一篇の詩であった。
この頃われら仲間の文章熱は非常に盛んであった。殆ど毎月のように集会して文章会を開いていた。それは子規居士生前からあった会で、「文章には山がなくては駄目だ。」という子規居士の主張に基いて、われらはその文章会を山会と呼んでいた。その山会に出席するものは四方太、鼠骨、碧梧桐、私などが主なものであった。従来芝居見物などに誘い出す度《た》びに一向乗り気にならなかった漱石氏が、連句や俳体詩にはよほど油が乗っているらしかったので、私はある時文章も作ってみてはどうかということを勧めてみた。遂に来る十二月の何日に根岸の子規旧廬で山会をやることになっているのだから、それまでに何か書いてみてはどうか、その行きがけにあなたの宅へ立寄るからということを約束した。当日、出来て居るかどうかをあやぶみながら私は出掛けて見た。漱石氏は愉快そうな顔をして私を迎えて、一つ出来たからすぐここで読んで見てくれとのことであった。見ると数十枚の原稿紙に書かれた相当に長い物であったので私はまずその分量に驚かされた。それから氏の要求するままに私はそれを朗読した。氏はそれを傍《かたわ》らで聞きながら自分の作物に深い興味を見出すものの如くしばしば噴き出して笑ったりなどした。私は今まで山会で見た多くの文章とは全く趣きを異にしたものであったので少し見当がつき兼ねたけれども、とにかく面白かったので大に推賞した。気のついた欠点は言ってくれろとのことであったので、私はところどころ贅文句《ぜいもんく》と思わるるものを指摘した。氏は大分不平らしかったけれども、未だ文章に就いて確かな自信がなく寧ろ私を以って作文の上には一日の長あるものとしておったので大概私の指摘したところは抹殺したり、書き改めたりした。中には原稿紙二枚ほどの分量を除いたところもあった。それは後といわず直ぐその場で直おしたので大分時間がとれた。私がその原稿を携えて山会に出たのは大分定刻を過
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