、
「どこが面白いのです。」というような質問を氏は出した。私は、
「あのおいらんが二、三人も並んでいる華やかな光景がいいのです。たまにああいう刺戟を受けに来るのです。」と答えた。それには氏も首肯したようであった。氏は壮士芝居を見て居っても、
「何故あの役者はあんなに不自然な大きな声をして呶鳴《どな》るのか。」といったり、
「何故あんなにだだっ広い部屋にしたのか、何故あすこの壁があんな厭な色をして居るのか。」などといったりした。まして筋を運ぶ上の不自然な点などは非常にその気持を悪がらせた。歌舞伎の方は内容の愚劣なことは同じであっても、形の上の或る発達した美しさだけに多少の興味を見出し得たようであった。
中で最も氏をよろこばせたのは能楽であった。
「能は退屈だけれども面白いものだ。」といって氏は能を見ることは決して拒まなかった。かくして私は比較的多く能を見に誘い出した。それで細君との約束を果すことが出来た。
その頃私は連句を研究していて「連句論」を『ホトトギス』に載せた。明治三十七年の九月に漱石氏を訪問して見ると席上に四方太君も居った。話が連句論になった時に、鳴雪翁や碧梧桐君の連句反対論に対して氏は案外にも連句賛成論者であった。四方太君もまた賛成論者の一人であったので三人はたちまちその席上で連句を試むることになった。氏は連句の規則には不案内であったが、私の言うことを聞いて何ン遍も作りかえているうちに規則に合った句が出来た。その規則に合った句はもとよりのこと、規則に合わなくって捨てた句も、独立した一つの句としては皆|振《ふる》ったものであった。試にその一、二句を抜載して見れば、
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後の月ちんばの馬に打ち乗りて
鉄《かな》網の中にまします矢大臣
銘を賜はる琵琶の春寒
意地悪き肥後|武士《ざむらひ》の酒臭く
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この連句を作ったことがもとになって、私と漱石氏とは俳体詩と名づくるものを作ることになった。これは連句の方は意味の転化を目的とするものであるが、十七字十四字長短二句の連続でありながら、意味の一貫したものを試みて見ようというのが主眼であって、私はそれを漱石氏に話したところが、氏は無造作に承諾した。そうして忽ち「尼《あま》」の一篇が出来上った。それは私と漱石氏との両吟であったのだが、漱石氏の句は華やかな、調子の高いもので、殊
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