近く縁端に立って居ると漱石氏もその傍に立って何か話をしていた光景《ありさま》が印象されて残って居る。私も黙って漱石氏の傍に突っ立っていたのである。それから一人の若い男の人が快活に何か物を言いながら這入って来たのに対して、細君が、
「いよいよ夏目が帰って来たから御馳走《ごちそう》をしますよ……」と打ち晴れた顔をして笑いながら言った時の光景が眼に残って居る。そうして、船が長崎であったか神戸であったかに着いた時に、蕎麦《そば》を何杯とか食った上にまた鰻飯を食ったので腹を下したそうです、というような事を細君が私に話したことを記憶して居る。
 それから漱石氏は一高の教授に転じ、大学の講師をも兼ねるようになって明治三十七年の九月頃まではその教師としての職責を真面目に尽すという以外あまり文筆には親しまなかった。ただ『ホトトギス』に「自転車日記」というものを一篇書いた。それは面白いものではなかった。私は時々訪問していた。氏はその頃駒込千駄木町に住まっていた。それは太田の池の近所であった。
 ある時訪問して見ると漱石氏は留守であった。この時細君は玄関に出て来て私にこういう意味のことを話した。
「どういうものだかこの頃機嫌が悪くって困るのです。少し表てに出てお友達を訪問でもすれば慰むところもあろうと思うのですけれどもそういうことはちっともしません。それで寺田さんにもお頼みしたのですが、あなたも間《ひま》な時にはチトどこかに引張り出してくれませんか。」
とこういう意味の話であった。私はその意味を了承して帰った。そうしてそれから間もなく本郷座の芝居を見に引っ張り出した。氏は頗《すこぶ》る出渋っていたけれども終《つい》に私の言うことを聞いて出かけた。それは高田、藤沢などの壮士芝居で外題《げだい》は何であったか忘れたが、とにかく下らないものであった。氏は極めて不愉快そうな顔をしてこの芝居を見ていたが、我慢がし切れなくなって様々の冷評を試みはじめた。終《しま》いには、「君はいつもこんなものを見て面白がっているのですか。」などといって私を攻撃しはじめた。そうして中途で帰ってしまった。
 私は細君に約束した以上一度で止めてしまうわけに行かなくって更に明治座かどこかの歌舞伎芝居に一度と、能に二、三度引っ張り出した。歌舞伎芝居の方は油屋《あぶらや》お紺《こん》かなんかであったように記憶して居る。その時も
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