めに戸を開いたるペンは直ちに饒舌り出した。果せるかな家内のものは皆新宅へ荷物を方付に行って伽藍堂《がらんどう》の中《うち》に残るは我輩とペンばかりである。彼は立板に水を流すが如く※[#「女+尾」、第3水準1−15−81]々《びび》十五分間ばかりノベツに何かいっているが毫もわからない。能弁なる彼は我輩に一言の質問をも挟さましめざるほどの速度を以て弁じかけつつある。我輩は仕方がないから話しは分らぬものと諦《あきら》めてペンの顔の造作の吟味にとりかかった。温厚なる二重瞼と先が少々逆戻りをして根に近づいている鼻と、あくまで紅いに健全なる顔色と、そして自由自在に運動を縦《ほしい》ままにしている舌と、舌の両脇に流れてくる白き唾とを暫くは無心に見詰めていたが、やがて気の毒なような可愛想のようなまた可笑しいような五目鮨司《ごもくずし》のような感じが起って来た。我輩はこの感じを現わすために唇を曲げて少しく微笑を洩らした。無邪気なるペンはその辺に気のつくはずはない。自分の噺《はなし》に身が入って笑うのだと合点したと見えて赤い頬に笑靨《えくぼ》を拵えてケタケタ笑った。この頓珍漢なる出来事のために我輩はいよいよ変テコな心持になる、ペンはますます乗気になる、始末がつかない。彼のいう所をあそこで一言ここで一句、分った所だけ綜合して見るとこういうのらしい。昨日差配人が談判に来た。内の女連はバツが悪いから留守を使って追い返した。この玄関払の使命を完《まと》うしたのがペンである。自分は嘘をつくのは嫌だ。神さまに済まない。然し主命《しゅうめい》もだし難しで不得已《やむをえず》嘘をついた。まず大抵ここら当りだろうと遠くの火事を見るように見当をつけて漸く自分の部屋へ引き下った。
[#ここで字下げ終わり]

 漱石氏の一年半の英国留学中の消息は、これらの書信以外には私はあまり知らない。しかし他の留学生の多くが酒を飲んだり、球を突いたり、女にふざけたりして時日を空過する中に漱石氏は最も真面目に勉強したことだけは間違いない。漱石氏の帰朝した時にはもう子規居士は亡くなっていた。
 漱石氏の留守中、細君は子供と共に牛込の中根氏――細君の里方である――の邸内の一軒の家《うち》に居たように記憶して居る。私が氏を訪問して行ったのもその家であった。丁度私の訪問して行った時に中根氏が見えていて痩せた長い身体を後ろ手に組んで軒
前へ 次へ
全76ページ中27ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
高浜 虚子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング