た。これは漱石氏が留別《りゅうべつ》の意味でしてくれた御馳走であった。その帰り道私は氏の誘うがままに連立ってその仮寓に行った。そうして謡を謡った。席上にはその頃まだ大学の生徒であった今の博士寺田寅彦君もいた。謡ったのは確か「蝉丸《せみまる》」であった。漱石氏は熊本で加賀宝生を謡う人に何番か稽古したということであった。廻し節の沢山あるクリのところへ来て私と漱石氏とは調子が合わなくなったので私は終に噴き出してしまった。けれども漱石氏は笑わずに謡いつづけた。寺田君は熊本の高等学校にいる頃から漱石氏のもとに出入していて『ホトトギス』にも俳句をよせたり裏絵をよせたりしていた。それが悉く異彩を放っていたので、子規居士などもその天才を推賞していた。そこで寺田寅彦君という名前は私にとって親しい名前ではあったのだが、親しく出合ったのは確かこの時がはじめてであった。近時は一体に文学者が雅号を用いぬことが流行するが、寺田君はその頃から寅彦で押し通していた。坂本君は本名の四方太《よもた》を四方太《しほうだ》と読ませていたが、寅彦君は本名そのまま寅彦で押し通したのであった。その日寅彦君は初めから終いまで黙って私たちの謡を聞いていたが、済んでから、先生の謡はどうかしたところが大変|拙《まず》いなどと漱石氏の謡に冷評を加えたりした。そうすると漱石氏は、拙くない、それは寅彦に耳がないのだ、などと負けず我慢を言ったりなどした。
「僕も洋行することになるのだったから、謡なんか稽古せずに仏蘭西《フランス》語でも習っておいたらよかった。」と漱石氏は言った。私は謡と仏蘭西語とを同格に取り扱うような氏の口吻《こうふん》をその時不思議に思ってこの一語を今も牢記している。その時氏はまた美しいペーパーの張ってある小さい鑵の中から白い粉を取り出して、それを掌《てのひら》にこすりつけて両手を擦り合わした。そうするとその白い粉がやや黒味を帯びた固まった粉になって下に敷いてある紙の上にこぼれ落ちた。
「それは何ですか。」と私は不思議そうにながめ入った。
「これは手の膏《あぶら》をとるのですよ。僕は膏手だから。」と漱石氏は応えた。
「西洋に行くとそんなものが必要なのですか。」
「貴婦人と握手などする時には膏手では困りますからね。」
そんな会話をしたことを私は覚えている。またこの日私は西洋料理を食った時に、氏が指で鶏の骨をつ
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