って、後には『銀杏《いちょう》』という雑誌まで出して中々盛んなものであった。文に常松迂巷とあるのは池松|迂巷《うこう》の間違いである。私はその当時雑誌発行というような事務に馴れなかった上に健康が十分でなかったので手紙などは怠り勝ちであった。もっともそれは今日になってもなおつき纏《まと》っている私の病所であるが、漱石氏などはその頃から決して人の手紙に返事を怠るような人ではなかった。殊に人に物を頼まれたりした場合は必ずその面倒を見ることを怠らなかった。漱石氏が熊本を去って後に紫溟吟社の人々も四散してしまってまた昔時の面影を見ることが出来ないようになったが、それも漱石氏のような、積極的に会の世話をしないまでも、何かと会員の面倒を見てやる中心人物がなくなったということが主な原因であったろう。次に『ホトトギス』の記事に就ての警告は、消息欄に書いた記事についての非難であった。どんな記事であったか今それを調べて見るのも馬鹿馬鹿しいような事柄であるが、消息は主として同人仲間の消息を漏らすのであったので自然楽屋落ちになることは止むを得なかったことである。子規居士は格別それを嫌いもせず、寧ろそれをよろこぶような傾きがないでもなかった。
「あまり甚だしい楽屋落は困るけれども、少し位はかえって読者にとって興味があるかもしれない。」などと言って居た。子規居士はじめわれらの仲間のものに較べて遥かに後輩である読者などは、先輩としての子規居士やその他同人らの消息を知ることは多少の興味であったに相違ないが、子規居士の同輩である漱石氏などから見たらば、定めし癪《しゃく》に障る記事が多かったろうと思う。殊にその頃のわれらは未だ二十《はたち》台の若さであったので、大した分別もなく下らぬことを言い合ってよろこんでいたものであった。そんなことが記事になって出るのを見ると漱石氏などは定めて歯の浮くような感じがしたことであったろう。
 それから漱石氏が文部省から二年間英国留学を命ぜられて洋行するようになったのは明治三十三年の九月のことであった。それに就いて漱石氏は何時上京したのか、それらのことも今ははっきりと記憶に残って居らぬ。ただある日漱石氏は猿楽町の私の家を訪問してくれて、「どこかへ一緒に散歩に出かけよう。」と言った。それから二人はどこかを暫く散歩した。そうして或る路傍の一軒の西洋料理屋に上って西洋料理を食っ
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