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明治三十九年十二月二十三日(葉書)
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拝啓 蝶衣《ちょうい》(高田四十平《たかだよそへい》)君の[#「君の」はママ]所ハ淡路釜口デスカ。
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[#地から3字上げ]夏目金之助
高浜清様
○
明治三十九年十二月二十六日(葉書)
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廿七日引き越します。
所は本郷西片町十ロノ七
であります。仲々まずい所です。喬木《きょうぼく》を下って幽谷ニ入ル。
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[#地から3字上げ]夏目金之助
高浜虚子様
七
明治四十年頃からの漱石氏はますます創作に油が乗って来て、その門下に集まって来た三重吉、豊隆《とよたか》、草平《そうへい》、臼川《きゅうせん》その他の人々に囲繞《いじょう》せられて文壇に於ける陣容も整うて来た事になった。その時に当って朝日新聞から社員として傭聘《ようへい》するという話が始まって、遂に氏は意を決して大学講師の職を辞して新聞社員として立つ事になった。同時に氏は素人の域を脱して黒人《くろうと》の範囲に足を踏ん込んだ事になったので、今までは道楽半分であった創作が今度は是非とも執筆せねばならぬ職務となった。氏の立場は堂々たるものになったと同時に気ままとか楽しみとかいうゆとりは無くなってしまった。が氏の謡の稽古を思い立ったのもその頃からの事である。氏は熊本に居る頃加賀宝生を謡う人に二、三十番習った事があったので、誰か適当な宝生流の師匠はなかろうかと言われた時に、私は松本金太郎翁を推挙したのであったが、遂にそれは宝生新氏に落着いて私らと同流の下宝生を謡うことになったのであった。氏はまた晩年になって絵を書いたり詩を作ったりする模様であった。氏も道楽なしには日を暮す事の出来ない人であったようである。大学の先生をしている間は創作が道楽であった。創作が本職になってからは謡や絵や詩が道楽となった。
氏が大学を辞して朝日社員となって間もなく早稲田大学から氏を傭聘したいという申込みがあった。もっともそれは表向きではなく島村抱月氏から片上天弦《かたがみてんげん》氏を通じ私から漱石氏の意向を聞いてくれぬかという事であった。私はその事を漱石氏に話した時に氏は次の如く答えた。
「一度大学を辞した以上自分は最早大学に復帰する考えはない。もし今度何処か
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