の学校に関係を持たねばならぬような場合が生じたら、その節は一番に早稲田大学の方に交渉を開く事にしよう。その点だけは堅く約束して置くが、今はそういう考は持たない。」とこういう返事であった。
漱石氏はまた朝日新聞社員となった以上新聞のために十分の力を尽して職責を空しくしないようにしなければならぬという強い責任感を持っていた。そこで新聞社の方では他の雑誌、少くともその出身地である『ホトトギス』に時々稿を寄せる位の事は差支ない事としていたらしかったが――これは私が渋川玄耳《しぶかわげんじ》君から聞いた事であった――漱石氏は他の雑誌に書くとそれだけ新聞に書くべき物を怠るようになるという理由から新聞以外には一切筆を取らないと定めたようであった。これは創作が道楽でなくなって職業となり原稿紙に向うことに興味の念の薄くなって来た以上止むを得ぬ傾向と言わねばならなかった。私もこれを強いて要望する気にもならなかった。
私が『国民新聞』のために国民文学を創《はじ》めた当時は能く漱石氏の談話筆記を紙上に載せた。また漱石氏を芝居に引ぱって行ってその所感を聞きとるような事もした。しかしそれも間もなく『東京朝日』紙上に朝日文芸欄が出来るようになってから中絶せねばならなかった。それは新聞そのものの立場から国民文学と朝日文芸とは自然対立しなければならぬ性質のものであったからである。数年前の漱石氏は創作の方面の直接の友としては全く私一人を有しているに過ぎなかったのであったが、この頃の漱石氏はその数多い門下生諸君と朝暮接触してそれらの人々のために謀ってやらねばならぬ止むを得ざる立場に立っていた。朝日文芸欄もそれらの要求から生れ出たものであったらしく、それが私の受持っている仕事と対立せねばならぬようになった事は残念なことであった。けれどもそれらは決して私と漱石氏との間を疎々《うとうと》しくするほどの大事件ではなかった。漱石氏の家で毎週催おされる木曜会には私は主な出席者の一人であった。漱石氏は常に私を激励する事を怠らなかった。
私が明治四十三年にチブスに罹って健康を損じて以来私は生活を一変せねばならぬ事になった。私は国民新聞社を辞して衰滅に傾きつつあった『ホトトギス』を私一人の力で盛り返す事に尽力すべく決心したが、健康が何時も不十分であった上に住居を鎌倉に移したために従来頻繁に往来していた旧友諸君と自然
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