強うる事は出来不申候故左様御承知|被下度《くだされたく》候。
財政の事につきては一向様子分らず候えども収支償わずとありてはもとより分別せざるべからず候。既往の決算将来の見込につきて大略の処御報奉願候。
小生金はなけれども場合によりては救済の手段も可有之と存居候。
定価の事は可成しばしば変更せぬこそよけれと存候。
しかし少しにても経済的のことならば改むるに憚《はばか》らずそれらは御考にて如何様《いかよう》とも可被成《なさるべく》候。ただ隔月刊行の事は小生絶対的反対に有之候。隔月にするようならば廃刊のまさるに如《し》かずと存候。
昨年の今頃にありては貴兄と鳴雪翁との気焔《きえん》あたるべからざるものありしやに覚え候。今は小生一人意気込居候。然れども東京にて出すには可なり骨が折れて結果|少《すくな》しと存候。畢竟松山の雑誌なればこそ小生等も思う存分の事出来申候。
何にせよ小生はただ貴兄を頼むより外に術無く、貴兄もし出来ぬとあれば勿論雑誌は出来ぬことと存候。
一時編輯を他人に任すはもとより宜しけれど到底それは一時の事にして再び貴兄の頭上に落ち来るは知れたことと存候。
何分にも松山には人物なきか。熱心家なきか。貴兄を扶助する人一人もなきは御気の毒と申外之無候。またなげかわしき事に存候。
(中略)
万里の外に在って小生独り気をもむ処御|憫察《びんさつ》可被下候。
年末は小生一年間最多忙の時期殊にこの両三日は一生懸命に働いても働ききれぬほどに御座候。しかし『ほととぎす』の事も忘れ難く、貴兄に弱音を吐かれてはいよいよ心細く相成申候。呵々《かか》。
貴兄御困難のことも大方推量致し居候えども何卒《なにとぞ》出来るだけの御奮発願上候。
(下略)
十二月十八日
極堂詞伯
[#ここで字下げ終わり]
居士の例の執着はここにも頭をもたげて来て、容易に極堂君をして『ホトトギス』から手を引かさしめなかった。そこで極堂君は翌年の夏頃までとにかく続刊して来たのであったが、それが三十一年の十月から余の手に渡って東京に移さるることになったのである。『ホトトギス』が余の手に渡ってから居士と余との関係はまた一変した。道灌山で一度破れた特別の関係がまた違った形で結ばれることになった。
十三
『ホトトギス』が余の手に渡ってから居士と余との関係は非常に密接になった。
その前から、明治三十年の頃から、居士は和歌の革新を思い立ってその方に一半の努力を割《さ》いていたのであったが、その方は余も碧梧桐君もあまり関係はなかった。初めの間は和歌の会に案内を受けて二、三度行ったこともあったが、余らの作は俳句の調子になってどうも和歌らしいものが出来なかったのでそのまま止めてしまった。碧梧桐君も同様であったように記憶する。それで余らは単に俳句の方の門下生として居士の許に時々顔を出すに過ぎなかったのであったが、いよいよ『ホトトギス』を東京に移して晴々しく文壇に打って出ることになってから、居士の注意も暫くは此の雑誌の方に傾いていたようであり、自然その当事者たる余は最も居士と交渉が多かった。
碧梧桐君初め多くの同人の頭には、
「虚子が東京で雑誌を遣るそうであるが、そんな馬鹿なことをして成功するものか。」というような軽侮の念があったことは隠くされぬ事実であった。もっともそういう風に同人から同情を得なかったという事は余の注意が行届かなかったのも一つの原因を為《な》しておる。由来余は感興に任せて事をするためにいつもそのステップを踏むことを忘れるのである。時には気のついて居る事もあるけれども、気がついていながらそれを踏むことが面倒臭いのである。そのため人から種々の誤解を受け反感を招くのである。これは他人の罪でなく一に余の罪である。此の東京で『ホトトギス』を遣るようになった時も余は居士とは熟議を経たけれども碧梧桐君その他にはあまり念の入った相談はしなかったかと思う。碧梧桐君らがその事についてたいした同情を持たず、時としては反感を抱くことすらあったというのも当然の事だと今からは考えるのである。
が、諸君とそういう関係であったという事が余と居士との関係をしてますます深からしめる原因ともなったのであった。
「『ホトトギス』は他の何人の力も借らずに二人の力でやらねばならぬ。」
こういう考は期せずして両人の頭に在った。
『ホトトギス』は予期以上の成功であった。当時の文壇はまだ幼稚であって文学雑誌というものも『早稲田文学』、『帝国文学』、『めさまし草』、その他一、二あったばかりで競争者が少なかったのにも原因するであろうが、初版千五百部が瞬く間に売切れて五百部再版したことはちょっと目ざましいことであった。第二号は千二百部を刷り第三号は千部を刷ったが、いずれも売切れて、第三号はあまり用心し過ぎて大分読者に行渡らず種々の不平を聞いたほどであった。第四号以下は千二、三百から千四、五百に殖えて行ったように記憶する。
この雑誌売行の成功という事は頗《すこぶ》る仲間の人気を引立てた。居士初め何人も我党の人気がそれほど盛であろうとは予期しなかった事でいずれも多少の意外に感じたことであった。が、同時にまた、
「虚子は我ら仲間が食わしてやっているのだ。」というような不平が同人仲間にあった。これもやはり余に対する同情の少なかったのが原因で、それも余の不注意が最大原因を為しているのであった。
居士は余と他の人々との間に立って両者の意思を疏通《そつう》することを常に忘れなかった。が、また他の人々の意見を借りて居士自身の不平を余に訴えることも少くはなかった。
余は先きに『ホトトギス』の関係が出来てから居士の周囲に於ける余の影は再び濃くなったと書いたが、しかし悲しむべきことには一方に妻子を控えていた余は決してその昔し――道灌山以前に――余が居士の周囲に影の濃かった時代に比べると何処《どこ》となく不純なところがあった。かつて居士の眼に、世間の事には全く疎く金銭の事には殆ど低能児だとまで見られていた余が、存外世間の事にかけて居士よりも巧者なことがあり、金銭に於てもそれほど間が抜けていないという事が判った時に、居士は一面に安心したと同時に一面には多少の不快をも感じたに相違なかった。『ホトトギス』は必ずしも営利的の事業という事は出来なかったけれども、幸か不幸か相当に売れて、まず雑誌としては成功した部に属したという事が、同人仲間の関係をしていくらかむずかしくならしめたという事は争うことの出来ぬことであった。それも余がその際に処することが行届いていたならばそれほど難事ではなかったのであろうけれども頗る不行届であったという事が勢いそれをむずかしくならしめたのであった。居士は、居士自身の不平はさて措いて、常にその点に注意を払って余のために『ホトトギス』のために――憂慮していた。
居士の健康は決していい方に向うのではなかったが、二十八、九年頃の病勢に比べると大分緩和されたので三十年、三十一年、三十二年という三年間位はそれほど衰弱が増したように余所目《よそめ》には見えなかった。もっともこれは余所目である。居士にしては止むを得ず病気に慣らされて、目立って苦痛を訴えなかったというだけで、その実病勢は漸次に進みつつあったのであろうが、我らの眼にはそれほど著しく映らなかった。
その間居士の仕事はおよそ三つに分つことが出来た。その一つは俳句の仕事、その二は和歌の仕事、第三は写生文の仕事であった。俳句の仕事は、もう天下の大勢が定まって、ちょっと容易に動かぬまでになっていたので、居士は寧ろ其方よりも当時創業時代にあった和歌革新の事業の方により多くの力を注いでおったのである。けれども居士の事であるから決して俳句の方を疎《おろそ》かにするではなかった。和歌に関する事は主として『日本新聞』紙上に於てし、俳句に関する事は主として『ホトトギス』紙上に於てするようにしていた。その他『ホトトギス』紙上の事業の一つは写生文で、居士は此の方面に於ても我らの中堅となって常に努力を惜まなかった。
俳句を作るもので和歌を作るものも少しはあったがそれは寧ろ少なかった。どちらかというと俳句の弟子と和歌の弟子とはそれぞれ別々に屯《たむ》ろして居った。そうして写生文の方には初めは俳句の側のものばかりであったが、中頃から和歌の側のものも走《は》せ参じてあたかも両者が半分位ずつの割合となった。
余は和歌には殆ど無関係であった。それが原因というではなかったが『ホトトギス』には最も和歌の関係が薄かった。初めは強いて二、三の作を載せたがそれもいつか中絶してしまった。そうして俳句の分量が過半であったことはいうまでもないとして、写生文が存外重きを為してまたその方面に著しい進歩のあったことは特に記憶せなければならぬことであった。
居士もかつてこういうことを言ったことがあった。
「この間紅緑が何かに書いて居ったが、俳句の事業は革新とはいうものの寧ろ復古で、決して新らしい仕事という事は出来ないが、写生文は純然たる新らしい仕事で、これは我ら仲間が創始したものと言って誇ってもいいのである。」
しかし余をして忌憚《きたん》なく言わしめば居士の俳句の方面に於ける指導は実に汪洋《おうよう》たる海のような広濶《こうかつ》な感じのするものであったが写生文の方面に於ける指導はまだ種々の点に於て到らぬ所が多かったようである。その一、二の例をいえば、居士は頻りに山[#「山」に白丸傍点]ということを唱えて、山のない文章は駄目だとし、特に『水滸伝《すいこでん》』などを講義して居士の認めて山とするものを指示してくれたが、今日から見るとその山なるものはよほど境界の狭いものであった。――文章会を山会と言ったのもそれに基いたのであった。――また居士は山を製造[#「製造」に白丸傍点]することを頻《しき》りに唱道したが、それも晩年になって、自然を寸毫《すんごう》も偽わることは大罪悪なりといった言葉から推すと、自ら否定したものともいえるのである。――少くとも其処《そこ》に矛盾した二個の主張があったともいえるのである。
居士の盛名は日に月に加わって来た。居士の盛名が強大であるに連れて我らのような有象無象《うぞうむぞう》も共に有名になって来た。それが相当に勉強して有名になるならば不思議はないのであるが、あまり勉強もしないでいて、有名になって、それで澄ましていたものだから、漸くいらいらして来た居士は何かにつけて余らを罵倒《ばとう》し始めた。居士の晩年に於ける言行は何物に対しても痛罵骨を刺すものであったが殊に余らに対しては最も峻烈《しゅんれつ》を極めていた。
居士はある時余にこういう事を言ったことがあった。
「私《あし》がこう悪口ばかりを言っていて世人が我慢をしているのは病人だからである。これが病人でなかった日にはとても我慢はしていやすまい。それを思うと病人というものはなかなか得なものである。」と。そう言って居士は苦笑した。
しかしそれは決して病人だからという理由ばかりではなかった。その他居士の人格、事業が世人に認識されて居士のいう事は一つの権威となってしまったからであった。もう居士の文壇に於ける地位は動かそうと思っても動かされぬものになってしまっていた。居士は初めは自分の大を為すために社会に自分の門下生を推挙する必要があった。今は居士の大を為すために、公平に厳密に門下生を品隲《ひんしつ》する必要があった。
こういう事をいうとそれは居士の人格を傷《きずつ》ける議論だという人があるかも知れぬ。私はその議論にくみしない。居士はその位の用意は常に忘れなかった人である。居士はそういう事は超越してもっと高いところに偉大なところがあった。
一方からいうと居士の門下生に対する執着――愛――がこの時に至るまで熾烈《しれつ》であって黙ってそのぐうたらを観過することを許さなかったのであった。彼らの前途のためにもしくは彼らを見習う多くの青年のためにぜひ一痛棒を加えておく必要を感
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