過ぎなかったものがたちまち俳人として世に名を知らるるようになったのであるが、それでいて何となく影の薄い感じがする。というものはたとい居士によって社会に推挙され社会からは予期せざる待遇を受けるようになりながらもなお自己としては何処《どこ》までも放浪の書生で、居士の門下生として俳句を作っておる中《うち》に格別の興味も誇をも見出し得ないで、半《なかば》は懊悩《おうのう》し半は自棄しつつ、ただ本能に任せ快楽を追うのにこれ急であったのである。ある時居士は、「お前ももう少し気取ってもええのだがなあ。」と笑いながら余に言ったことがあった。余は淡路町の下宿に「大文学者」という四字を半紙に書いて壁に張りつけながら瘧《おこり》を病んでうんうん言っていたことがあった。居士はこの事を伝え聞いて、「大文学者の肝小さく冴《さ》ゆる」と同じく半紙に書いて余に送って来た。これは馬鹿気《ばかげ》た一笑話であるが、実をいえば十七字の短詩形である俳句だけでは満足が出来なかったのである。世人が子規門下の高弟として余を遇することは別に腹も立たなかったがそれほど嬉しいとも思わなかったのである。このとりとめもないような一種の空想は今もなお余を支配している。余は今でもなお学問する気はない。けれどもどこまでも大文学者にはなろうと思っておる。余の大文学者というのは大小説家ということである。それ以上を問うことは止めてもらいたい。ただ大小説家となろうと思っているのである。
此の余が居士の周囲の一人として影の薄い時代に種々の俳人が居士の周囲を彩《いろど》った。その中《うち》に中野|其村《きそん》君のような人もあった。其村君は何人《なんぴと》の子で何国の産という事を知らない。ただ落語家の燕枝《えんし》の弟子であったとか博徒《ばくと》の子分であったとか饗庭篁村《あえばこうそん》氏の書生であったとかいう事のみが伝えられていた。三多摩郡《さんたまごおり》の吉野左衛門君の家に書生をしていた頃から『日本新聞』に投句して我ら仲間の人となったのである。余の下宿にも書生の目には珍らしい大きな菓子折を持って刺《し》を通じて来た。長大な体に汚い服装をして顔も煤《すす》け色をして、ドンモリで、一見立ちん坊を聯想するような男であった。赤い舌を出したりひっこめたりしながら余の知らぬ色んな面白い話をして聞かせた。三十に近い同君が二十二歳の余を先生先生と敬称するのもそういう敬語に慣れぬ余には不思議に思われた。その後しばしば余を訪問して遂に余の下宿に同宿した。その部屋には殆ど何の什器《じゅうき》もなくって、机の上に原稿紙があるのと火鉢の傍に煙管が転がっているばかりであった。障子を開けるといつも濛々《もうもう》たる煙の中に坐っていた。着替はもとより寝巻もなく本当の着のみ着のままというのはあの男の事であった。『国民の友』に「人寄席《ひとよせ》の話」を投書したのが縁となって遂に民友社に入社し下層の事情に通ずるので重宝がられていたがその後行方不明になって今に誰の処にも音信がない。大方死んだのであろうという左衛門君などの鑑定である。
二、三日前の『国民新聞』の「忙閑競《ぼうかんくら》べ」の中《うち》に寄席の下足の話があったが、すべてああいう話が其村君の得意なところで、下足の誇りはそれを投げ出すと同時にチャンと下駄の並んでいるところに在るというようなことをあたかも自分の誇のようにしてドモリながら話していた。また余を縄暖簾《なわのれん》に伴《つ》れて行って初めて醤油樽に腰を掛けさせたのも其村君であった。其村君はいつでも袂《たもと》の底に銅銭や銀貨を少しばかり――ただし自分の所有全部――入れていたが、それをつかみ出してその時の支払をもしたことを覚えて居る。風呂屋に行った時着物を脱ぐ拍子にそれを板間にばら蒔《ま》いて黒い皮膚をした大きな裸の同君がそれを掻き集めた様《さま》などがまだ目に残っている。三十年の新年に初めて新年宴会が不忍《しのばず》弁天境内の岡田亭で催おされた。その時居士は車に乗って来会した。其村君が余興として軍談を語った。平生のドンモリに似合わず黒人《くろうと》じみて上手に出来た。
あまり其村君の話が詳し過ぎたかも知れぬが、そういう其村君のような人も門下生の一人として集まって来たという事が如何に当時各種の人が居士の門下に走《は》せ集まったかという事を物語るに足ると考えたからである。
芝の白金三光町にあった北里病院から『新俳句』という句集の現われたことも思いがけない出来事であった。それはその病院に入院中の上原|三川《さんせん》君と直野|碧玲瓏《へきれいろう》君とが――その外に東洋、春風庵《しゅんぷうあん》という二人の人もいた――『日本新聞』の句を切抜いて持っていたそれを材料として類題句集を編み、それを国民新聞社にいた中村|楽天《らくてん》君の周旋で民友社から出版したのであった。校正万端出版上の面倒は楽天君の隠れたる努力であった。この頃余は『国民新聞』の俳句の選者を依頼された。
その頃余の一身上には種々の出来事があった。余は一時季兄を助けて芝に下宿を営んだ。それが緒についてから日暮里《にっぽり》に間借をして家を持ち、間もなく神田五軒町に一戸を構えて父となった。余は最早《もはや》放浪の児ではなくなった。出産の費用を得るために『俳句入門』を出版したり、小説めいたものを書いて今の『中央公論』の前身『反省雑誌』に寄せたりした。政教社と国民新聞から若干の給料を貰っていたがそれだけでは生計を支えるに足りなかった。
明治三十年の一月に伊予の松山で柳原|極堂《きょくどう》君の手によって俳諧雑誌が発刊された。それが実に我『ホトトギス』であった。計らずもこの原稿を認《したた》める日、在伊予宇和島の増永|徂春《そしゅん》君から左の手紙の写しを送って来てくれた。これは『子規書簡集』にも洩れているものであるからここに全文を掲げる事にする。これは『ホトトギス』第一巻第一号が出来た時の評言で当時の消息が大体これによってわかる。
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『ほととぎす』落掌、まず体裁の以[#「以」に「(ママ)」の注記]外によろしく満足致し候《そうろう》。実は小生は今少しケチな雑誌ならんと存じ「反古籠《ほごかご》」なども少き方|宜《よろ》しからんとわざと少く致し候|処《ところ》甚だ不体裁にて御気毒に存《ぞんじ》候。さて編輯の体裁に就きて議すべきこと少からず、乍失敬《しっけいながら》アア無秩序にては到底《とうてい》田舎雑誌たるを免かれず候。
第一俳諧随筆類と祝詞と前後したることは不体裁の極《きわみ》也。最初に発刊の趣旨を置き、次に祝詞祝句を載せ、その次に随筆類その次に俳句などにて宜しかるべくと存候。
発刊の趣旨は色紙を用いざる方よろし。色紙を用いるならば祝詞祝句と随筆類との中間に挿《はさ》むかまたは他の文と募集句との中間に挿むかしてその上は募集句広告ばかりにてものせたし。
第二募集句の第五等を四分詰にしたるも苦しそう也。これは小生兼て申上置《もうしあげおき》候通り多ければ下より御削り可相成《あいなるべく》候。御忘れありしか如何。もし出来得べくんば四等以上にも出たる人の句を削り、その外のかつかつ五等及第の句のみを残せば猶《なお》宜し。
第三蕪村の句を入れるもよろしけれど一句|毎《ごと》に蕪村の名あるはうるさし。蕪村とはじめにあればそれにて十分也。(これは飄亭より注意)
第四飄亭曰く、募集句は鳴雪子規代る代る(一月おき)見ることにしては如何と。愚考にては前にも申上候通り募集句を二分して違う部分を見ても宜しと存候。飄亭説にてもまたたまたまには一処に同じものを評するも面白しと存候。これはしかし売行にも関することと存候|故《ゆえ》貴兄も御考可被成また広く一般趨向をも御聞可被下《おききくださるべく》候。
またある時は草稿を三分四分して碧虚なども一部分を見るもよろしからん。
第五募集題鶯、春風とはわるし。春風は昨年も『海南新聞』にて募集したるもの故よろしからず。同じ題が出ては前の募集句を見ておかねば剽窃《ひょうせつ》の煩いあり、また同じ題ばかりでは投書家の詩想広くならぬ憂あり。
また壱号の題に千鳥、時雨という動物天文ありて今度もまた鳥類と天文とはよほど素人くさき題の出し方也。貴兄にも似合ぬと存候。小生の我儘《わがまま》を申さば一応小生に御打合せ被下まじくや。
○以上欠点
此度《こんど》は題も二つにしてよほど材料を少くする御覚悟と見つれども、それならば祝詞の代りになるべき文章か俳句かをしっかり集める用意なかるべからず。碧、虚、飄亭はじめそれぞれ貴兄よりきびしく御請求あるべく候。鳴雪翁と僕とは黙っていても送る。
また募集句も今度は一号の半分もあるまじと存候。それは題が少きと題がわるきとに基因いたし候。その覚悟にて他の材料御あつめ可被成候。
鳴雪翁曰く校正行届きたること感心也。
先月鳴雪翁小家に来られ曰く、『ほととぎす』今日壱部来れり。猶諸方へ得意をつけんと思う故二部三部でもほしければ取りに来りたりと。小生方にも一部より参らずと申候えば、御失望の様子なりき。万一飄亭方へでもと存じ聞合候処同人へも一部しか来らずと。さては貴兄もぬかり給えり。とにかく初号也。残りあらば何部にてもよこしたまえ。鳴雪翁は少くも五、六部はほしといわれたり。(これは久松《ひさまつ》家及び諸俳人に贈るため)とにかく『ほととぎす』発行に就きては鳴雪翁一番大得意也。翁は一号を見てうれしくてたまらねば即日小家へも来られたるわけ也。
正直に申せば小生鳴雪翁ほどには得意ならず。一号を見た時はじめはうれしく後には多少不平なりき。しかし出来るだけは完美にしたいとは思う也。御勉強可被下候。壱円位の損耗ならば小生より差出してもよろしく候。
鳴雪翁のうれしさはあたかも情郎の情婦におけるが如く、親の子におけるが如くにて体裁も不体裁もなくただむやみやたらに嬉しき也。『ほととぎす』は翁の好意に向って感謝する処なかるべからず。
鳴雪翁は二号に「粛山公《しゅくざんこう》の句《く》」を送らるる由小生は「反古籠」を永く書くべし。
右大略批評まで如此候。以上。
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一月二十一日[#地から3字上げ]子規
正之君
一号残り御贈り被下度鳴雪翁宛にてもよろし。
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当地昨今厳寒
手|凍《こゞ》えてしば/\筆の落んとす
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『ホトトギス』が松山で出ている間は余はあまり熱心なる投書家ではなかった。子規居士のみは「俳諧反古籠」を連載し募集句を選むこと等を怠らずやっていたが、鳴雪翁も何か家事上の都合で一時俳壇を退れた事などがあってどうも思う通りに原稿が集らなかったようであった。その上いつも経費が不足し意外に手数のかかる事が多いので極堂君はその続刊困難の事を時々《じじ》居士に洩らして来た。次の手紙は『子規書簡集』に載っているものであるが、前掲の手紙に対照して見ることの上に興味が多いので更にここに載せる事にする。
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拝啓おしつまり何かと御多忙と奉存《ぞんじたてまつり》候。
『ほととぎす』の事委細|御申越《おもうしこし》承知致候。編輯を他人に任すとのことはもとより小生の容喙《ようかい》すべきことにてもなく誰がやっても出来さえすれば宜しく候。ただ恐る三|鼠《そ》は粗漏にして任に堪えざるを。盲天《もうてん》寧ろ可ならんも盲目よく為し得べきや否や。
御申越によれば売先は予州にあらずして他国に在る由。これ最も可賀の事とうれしく存候。即ち予州は極めて僻在《へきざい》の地ながら俳句界の牛耳を取る証拠にしてこの事を聞く已来《いらい》猶更小生は『ほととぎす』を永続為致度念|熾《さかん》に起り申候。
編輯上最も面倒なるは募集句清書ならんと存候。せめてはこれだけにても御手を助けんと存、この度は小生清書致し俳巻に添置候。今後も出来さえすれば清書可致候。
しかしこの事は小生の奮発より成るものにて他人を
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