一日も精神の不愉快を感じたる事なし。詩を作り俳句を作るには誠に誂《あつら》え向きの病気なりとて自ら喜びぬ。俳友も時におとずれくるるに期せずして小会を開くことさえ少からず。きのうは朝より絵師、社友、従軍同行者と漸次おとずれて点燈後鳴雪翁来給いたり。やがて碧梧桐、紅緑《こうろく》来りぬ。一会を催して別れたるは夜半近かりけん。誠に面白き一日なりけり。きょうは歴史談など面白く読み居る最中に医師は来りしなり。
僂麻質斯にあらぬことは僕もほぼ仮定し居たり。今更驚くべきわけもなし。たとい地|裂《さけ》山|摧《くだ》くとも驚かぬ覚悟を極め居たり。今更風声鶴唳に驚くべきわけもなし。然れども余は驚きたり。驚きたりとて心臓の鼓動を感ずるまでに驚きたるにはあらず。医師に対していうべき言葉の五秒間遅れたるなり。
五秒間の後は平気に復《かえ》りぬ。医師の帰りたる後十分ばかり何もせずただ枕に就きぬ。その間何を考えしか一向に記憶せず。ただその中に世間野心多き者多し。然れども余《わ》れほど野心多きはあらじ。世間大望を抱きたるままにて地下に葬らるる者多し。されども余れほどの大望を抱きて地下に逝《ゆ》く者はあらじ。余は俳句の上に於てのみ多少野心を漏らしたり。されどもそれさえも未だ十分ならず。縦《よ》し俳句に於て思うままに望を遂げたりともそは余の大望の殆ど無窮大なるに比して僅かに零《ゼロ》を値するのみ。
余の如く大望を抱きて空しく土と化せしもの古来幾人かある。余は殆どこれを知らず。されば余今ここに死したりとも誰か余に大望ありしとばかりも知り得んや。さりとて未だ遂げざる大望の計画を人に向って話さば人は呆然《ぼうぜん》としてその大なるに驚くにあらざれば輾然《てんぜん》としてその狂に近きを笑わん。鴻鵠《こうこく》の志は燕雀《えんじゃく》の知る所にあらず。大鵬《たいほう》南を図って徒らに鷦鷯《しょうりょう》に笑われんのみ。余は遂に未遂の大望を他に漏らす能わざるなり。古人またかくの如く思いあきらめしかばその大望は後世終にこれを知るなきに至りしのみという瞬間の考のみ僅《わず》かに今記憶せり。
再び読みさしたる歴史談を取って読む。誠に面白く珍らしく能くその意をも解し得たり。されども僕の脳髄は前半を読みたる時の脳髄と自ら異れり。時には半枚ほど前へ立ち戻りて繰り返したることも二、三度はありたり。一、二篇を無理に読みたる後これを抛棄《ほうき》せり。
何か面白くてたまらん一切の事物を忘れてしまうようなもの欲しと思えり。たちまち思い出でしことあり。枕頭を探りて反古堆中《ほごたいちゅう》より『菜花集《さいかしゅう》』を探り出《いだ》して「糊細工《のりざいく》」を読み初めぬ。面白し面白し。覚えず一声を出してホホと笑いたる所さえあり。この笑いほど僕を慰めたる笑いはなかりしなり。たちまちにして読み畢《おわ》りぬ。余音|嫋々《じょうじょう》として絶えざるの感あり。天ッ晴れ傑作なり貴兄集中の第一等なりと感じぬ。この平凡なる趣向、卑猥《ひわい》なる人物、浅薄なる恋が何故に面白きか殆ど解すべからず。されど僕はたしかにかく感じたり。
けだし僕が批評眼以外の眼を以て小説を見しこと『八犬伝』、『小三金五郎』以後今度がはじめてなり。小説が人間に必要なりとは常に理論の上よりしか言えり。その利益を直ちに感受したる今度がはじめてなり。
小説を読み畢りて今朝の僕は再び現われ来れり。この書面を認めて全く昨日の僕にかえりぬ。あら笑止。
僕もしこの間の消息を取って小説の材料となすを得ば僕に取りてこの上もなきめでたき事なり。僕これを得記さざるも貴兄これを用い給わばこれもめでたき事なり。
右等の事総て俗人に言うなかれ。天機|漏洩《ろうえい》の恐れあり。あなかしこ。明治二十九年三月十七日。病子規。虚子兄几下。」
[#ここで字下げ終わり]
『菜花集』というのは碧梧桐君などと共に拵《こしら》えた小説の回覧集であったのである。「糊細工」というのは即ち余のそれに載せた小説で、ある一小事件をスケッチしたものであった。写生文という名はまだ一、二年後の明治三十一年頃になって起ったのであるが、此の「糊細工」なども何の趣向もなく、また何の憚《はばか》るところもなく、事実をそのままに写生したもので即ち後年の写生文の濫觴《らんしょう》であったのである。居士が此の文章を見てホホと笑を洩らしたという処に居士の余に対するある消息は明白に読まれ得るのである。今日でも余は殆ど余の感情の赴くままに行動しつつあるのであるが、当時に在っては今日以上の極端であった。一旦《いったん》居士が余を以て居士の後継者と目するか、よし後継者と目さぬまでも社会的に成功させようという老婆親切を以て見た時には徹頭徹尾当時の余は歯痒《はがゆ》いまでに意思薄弱の一青年であったのである。道灌山以来は「虚子は小生の相続者にもあらず小生は自ら許したるが如く虚子の案内者にもあらず」と飄亭に贈った手紙にある如く、居士は忠告の権利を放棄したように言明しているのであるが、それにかかわらず爾後もなお何かにつけて社会的の忠告を余に試みて、余をして居士の手紙を見るたびに、顔を見るたびに、一種の圧迫を感ぜしめるまでに至ったのであるが、それが一旦その点の問題を離れて、居士と何らの利害関係なきただ一個の人間として余を見た場合にはまた別個の消息があったのである。この手紙に在る如く、医師から結核性脊髄炎といういよいよ前途の短い病であることを宣告された時に居士の頭には例の社会的の野心問題が頭を擡《もた》げて一時は烈しい精神の昂奮を感じたのであるが、それを忘れるがために何物かを探した時、そこにいわゆる「平凡なる趣向、卑猥なる人物、浅薄なる恋」を描いた余の作物に接して、居士の心はかえって何物かに救われたような慰安を感じたものと見える。余は先に道灌山以来、どうすることも出来ぬある物が常に両者の間に存在していたと言ったが、それにかかわらずまた居士と余との間には終始変らぬある感情上の領会が恒久に存在していたのであった。
十二
いわゆる「自立の決心いよいよ深くなれり」と言った居士は何人にも頼むところなく万事を自己一人の力で遣って行こうという決心を堅くした。それは二十八年の暮から二十九年に掛けて一言一行の上にきびきびしく現われておる。殊に明治二十九年という年は居士によって唱道せられたいわゆる新俳句が非常の力を以て文壇の勢力となった年であった。が、それについて他の手ぬるっこい承認を待つよりも居士自身で「明治二十九年の俳句界」と題した長論文を『日本新聞』紙上に連載して自らこれを承認し評価した。これは『俳句界四年間』と題した俳書堂出版の俳諧叢書のうちに収録してある。――この頃『俳諧大要』という合冊本として重版されたもののうちに在る。
居士の門下に集う俳人はこの頃も已に少くはなかった。漸く病床を出ることが稀になった居士はそれらの俳人の来訪を受けて句作し評論する上に種々の便宜も多かった。他の多くの人が種々の社会上の出来事に駆使されたりまた物質上の快楽に牽引されたりする中に在って、居士は静かに俳句の研究に専念なることを得た。もとより居士の性格にも原由するが境遇もまたこれを助けたといってよい。その静かに方丈の室に閉じ籠《こも》っていわゆる野心を満足さするのもこれ、病苦を慰むものもこれ、純一|無雑《むぞう》の心持で一向専念に古俳句の研究、新俳句の主張にこれ日も足らなかった居士の眼から、その周囲に勝手気儘に行動しつつあった人々を見た時の心持はどうであったろう。剣呑《けんのん》でもあったろう、歯痒くもあったろう、片腹痛くもあったろう、残念でもあったろう。居士は飄亭君に対しても、碧梧桐君に対しても余に対しても、紅緑君に対しても、鼠骨君に対しても、殆ど何人に対しても、時としては鳴雪翁に対してすらも、直接もしくは間接に種々の忠言を試みることを忘れなかった。もう道灌山でお互に絶縁を宣言した間柄の余に対して居士はなおその事は忘れたように何かにつけて苦言を惜まなかった。余を唯一の後継者とする考はその時以来全く消滅したのであるが、しかし門下生の一人として出来るだけこれを引立てようとする考は以前と少しも変るところはなかった。
余はいつもその事を思い出す度に人の師となり親分となる上に是非欠くことの出来ぬ一要素は弟子なり子分なりに対する執着《しゅうじゃく》であることを考えずにはいられぬのである。たとえばそれは母が子を愛するようなものである。余の知っているある一人の寡婦《かふ》はただ一人の男の子の放蕩を苦にしながらもどうしてもそれを棄て去ることが出来ぬ。その親戚の多くはその子と絶縁してしまうことをその寡婦なりその一家なりの利益だとして時々忠告を試みるのであるけれども、寡婦は陰になり日南《ひなた》になりしてその子を暖き懐に抱きよせようとしておる。その結果その子は夙《と》くに堕落し切ってしまうはずのものがまだともかくそこまでの深淵に陥らずに踏み止まっておる。これは母の愛である。母の子に対する執着である。もしこの執着がなかったらその子は牢に入っておるかのたれ死をしておるか、いずれそういう結果になっているのはいうまでもないことであるが、同時にまたその母はただ一人の男の子をその手から失っているのである。曲りなりにもなお母一人子一人として互に頼り合っていることの出来るのはその母の執着――愛――の力である。これと同じ事で人の師匠となり親分となるのにも第一に欠くことの出来ぬものはこの執着である。弟子や子分は気儘《きまま》である、浮気である。決して師匠や親分が思っている半分の事も思っていやしない。その弟子や子分の思い遣りのない我儘《わがまま》な仕打に腹を立てて一々それに愛想をつかしていた日には一人は愚か半人の弟子もその膝下《しっか》に引きつけておくことは出来ないのである。為《な》すある師匠、為すある親分はその点に於て執着――愛――を持っておる。たとい弟子や子分の方から逃れようとしても容易にそれを逃しはしない。母の愛が子を抱《いだ》きしめるようにその一種の執着力はじっと弟子や子分を抱きしめていて、たといもがき逃れようとしても容易にそれを手離しはしない。そういう点に於て子規居士は十二分の執着――愛――を持っていた。たとい門下生同士で互に他の悪口を言って、何故あんなものを膝下によせつけるのかという風にそれを排擠《はいせい》することがあるとしても、またそういう人間が自分から遠ざかろうとしても、居士は仮りにも自分の門下生となったものは一人も半人もこれを手離すに忍びなかったようである。これは居士の愛が深かったともいえる。居士の慾が突張っていたともいえる。いずれにしても見様《みよう》言様《いいよう》である。居士はかつて余らが自己の俳句をおろそかにするのを誡《いまし》めてこういう事を言ったことがある。自分はたといどんな詰まらぬ句であっても一句でもそれを棄てるに忍びない。如何《いか》なる悪句でも必ずそれを草稿に書き留めておく。それは丁度金を溜める人が一厘五厘の金でも決して無駄にはしないというのと同じ事である。僅か一厘だから五厘だからと言ってそれを無駄にするような考があったら如何に沢山の収入のあるものでも金持になることは出来ない。それと同じ事で、たとい如何に沢山の句を作る人でも、その句を粗略にして書きとめておかないような人はとても一流の作者にはなれない。そういう点に於て私《あし》は慾張りであると。即ちこの意味に於て居士は慾張りであった。執着心があった。愛があった。
松山で初めて居士に逢ってから神戸病院、須磨保養院、道灌山に至るまでの余は居士の周囲に在る一人《いちにん》として自ら影の濃い感じがするが、それ以後『ホトトギス』を余の手で出すようになるまでのおよそ三ヶ年間はよほど影の薄い感じがする。もっともこれはただ感じである。明治二十九、三十、三十一年の三年間は最も熱心に句作した年で、また居士が鳴雪翁、碧梧桐君らと共に余を社会に推挙した年で、それまでは放浪の一書生に
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