でなくてウォーズウォースであった。そのウォーズウォースの講義は少しも余の興味を牽《ひ》かなかった。その他に在っては大西|祝《はじめ》先生の心理学の講義を面白いと思ったが、それ以外には興味を呼ぶものがなかった。初めはつとめて登校していたが、それも漸く欠席勝になってしまった。此の明治二十八年の九月に専門学校の文科に這入った同期生は三、四十人であったかと思うが、余はそれらの人の名前を一人も記憶しておらぬ。その中には今の文壇に在って高名な人もあるのであろうが今までそれを取しらべて見たこともない。入学試験の時余は答案を誰よりも早く出して、その尻に一句ずつ俳句を書いた。その当時の余には賤《いや》しむべき一種の客気があって専門学校などは眼中にないのだというような見識をその答案の端にぶらさげたかったのである。初めより真面目に課程を没頭する気はなかったのである。
 それと同時に羯南氏の紹介で余は『日本人』紙上に俳句の選をし俳話を連載することになった。後年『俳句入門』に収録したものは此の『日本人』に連載した俳話が主なるものであった。
 一方に子規居士は須磨に在って静養の傍《かたわ》ら読書や執筆やに日を送った。『日本新聞』に連載しつつあった「養痾雑記《ようあざっき》」は遂に蕪村の評論に及んでそれはそれのみ切り放して見ることの出来る一の長篇となった。後年俳諧叢書の一冊として出版した『俳人蕪村』がこれである。余の方からは鳴雪翁、碧梧桐君らと会合して作った句稿などを送ると居士はそれに詳細な評論を加えてかえして来たり、またその近況を報ずる書面のうちに御承知の保養院の何番にいた病人は病状が悪くって家に引取ったとか、お前の帰った後に僕の部屋附きの女中となった何某《なにがし》という女にこの頃は習字を教えているというようなことも書いてあった。
 居士の俳句に於ける努力は大分前からの事であるし、『日本新聞』紙上に新俳句を鼓吹したことも二十六、七年からの事であったが、陣容が漸く整うて世人の注目を牽《ひ》くようになったのは実に此の『俳人蕪村』を以って始まると言っていいのである。それから須磨を引上げて松山に帰省してからは、折節松山中学校に教鞭《きょうべん》を取りつつあった夏目漱石氏の寓居に同居し、極堂《きょくどう》、愛松《あいしょう》、叟柳《そうりゅう》、狸伴《りはん》、霽月《せいげつ》、不迷《ふめい》、一宿《いっしゅく》らの松風会員諸君の日参して来るのを相手に句作に耽《ふけ》ったのであったが、その間に在って居士は『日本新聞』紙上に「俳諧大要」を連載し始めた。これはやはり松風会員の一人であった盲俳人|華山《かざん》君のために説くという形式によって居るが、その実居士の胸奥に漸く纏った自己の俳句観を天下に宣布したものであった。
 居士は二十八年の冬はもう東京に帰っていた。松山からの帰途須磨、大阪を過《よ》ぎり奈良に遊んだが、その頃から腰部に疼痛《とうつう》を覚えると言って余のこれを新橋に迎えた時のヘルメットを被っている居士の顔色は予想しておったよりも悪かった。須磨の保養院にいた時の再生の悦びに充ちていた顔はもう見ることが出来なかった。居士は足をひきずりひきずりプラットホームを歩いていた。
「リョウマチのようだ。」と居士は言った。けれどもそれはリョウマチではなかった。居士を病床に釘《くぎ》附けにして死に至るまで叫喚大叫喚せしめた脊髄腰炎はこの時既にその症状を現わし来つつあったのであった。
 居士が根岸の住みなれた庵《いおり》に病躯を横たえてから一月ばかり後のことであった。余に来てくれという一枚の葉書が来た。
 早速余は出掛けて行くと、少し話したいことがあるが、うちよりは他《よそ》の方がよかろうと言って居士は例のヘルメットを被って表に出た。余はそのあとに跟《つ》いて行った。頗る不機嫌な顔をした居士は黙々として先に立って行った。腰の痛みはあまりいい方でなかったのでその歩きぶりは気の毒にも苦しそうであった。余は大方の意味を了解していたのでやはり黙りこくってあとについて行った。稲は刈り取られた寒い田甫《たんぼ》を見遥るかす道灌山の婆の茶店に腰を下ろした時、居士は、
「お菓子をおくれ。」と言った。茶店の婆さんは大豆を飴《あめ》で固めたような駄菓子を一山持って来た。居士は、
「おたべや。」と言ってそれを余に勧《すす》めて自分も一つ口に入れた。居士は非常に興奮しているようであったが余はどういうものだか極めて冷かに落着いて来た。何も言わずにただ居士の唇《くちびる》の動くのを待っていた。
「どうかな、少し学問が出来るかな。」
 こう切り出した居士は、何故に学問をしないのかという事を種々の方面から余に問質《といただ》すのであった。殆ど二、三時間も婆の茶店に腰をかけていた間に、ものをいった時間は四分の一にも当らぬほどで二人の間にはむしろ不愉快な絶望的の沈黙が続いた。居士はもう自分の生命は二、三年ほかないものと覚悟した一つのあせりがもとになってじりじりと苛立《いらだ》っていた。二十三歳の快楽主義者であった余は、そういうせっぱ詰った苛立った心持には一致することが出来なかった。
「私《あし》は学問をする気はない。」と余は遂に断言した。これは極端な答であったかも知れぬがこう答えるより外に途がないほどその時の居士の詰問は鋭かった。が、また今日から考えて見ても此の答は正しい答であったと思う。余はたとい学問の興味が絶無でないまでも、生涯を通じて読書子ではないのである。余の弱味も強味も――もしそれがありとすれば――何れも此の非読書主義の所に在る。
「それではお前と私《あし》とは目的が違う。今まで私のようにおなりとお前を責めたのが私の誤りであった。私はお前を自分の後継者として強うることは今日限り止める。つまり私は今後お前に対する忠告の権利も義務もないものになったのである。」
「升《のぼ》さんの好意に背くことは忍びん事であるけれども、自分の性行を曲げることは私《あし》には出来ない。つまり升さんの忠告を容《い》れてこれを実行する勇気は私にはないのである。」
 もう二人共いうべき事はなかった。暮れやすい日が西に舂《うすづ》きはじめたので二人は淋しく立上った。居士の歩調は前よりも一層怪し気であった。
 御院殿《ごいんでん》の坂下で余は居士に別れた。余は一人になってから一種名状し難い心持に閉されてとぼとぼと上野の山を歩いた。居士に見放されたという心細さはもとよりあった。が同時に束縛されておった縄が一時に弛《ゆる》んで五体が天地と一緒に広がったような心持がした。今一つは多年余を誨誡《かいかい》し指導する事の上に責任と興味とを持っていた居士に今日の最後の一言で絶望せしめたという事に就いて申訳のないような悔恨の情もこみ上げて来た。
 居士が余に別れて独り根岸の家に帰って後ちの痛憤の情はその夜居士が戦地に在る飄亭君に送った書面によって明白である。その書面の結末に次の文句がある。
「今まででも必死なり。されども小生は孤立すると同時にいよいよ自立の心つよくなれり。」
 かくして居士はいよいよあせりいよいよいら立ち一方に病魔と悪戦しつつ文学界に奮闘を試みたのであった。

    十一

 今から考えて見ても、殆ど垂死の大病に取りつかれていた居士を失望さしたという事は申訳のないことであった。今少し余も心をひきしめ情を曲げて、その高嘱に負《そむ》かぬようにし、知己の感に酬《むく》ゆべきであったろう。がまた一方から考えて見ると、それは畢竟《ひっきょう》無益なことであって、たとい一寸《いっすん》逃れに居士及自己を欺いておいたところで、いつかは道灌山の婆の茶店を実現せずにはおかなかったのである。須磨の保養院で初めて居士から話を聞いた時に、截然として謝絶することが出来たらその上《うえ》越《こ》すことはなかったのであるが、その時それが出来なかった以上、婆の茶店で率直に断ったという事は双方に取って幸福なことであったとも考えられるのである。
 のみならず、後継者を作るというようなことは、生い先きが短いと覚悟した居士に在っては、それが唯一の慰藉ともなるのであったろうが、冷かにこれを言えば、そういう事はやや幼稚な考であって、居士の後継者は決して一小虚子を以てこれに満足すべきではなくして、広くこれを天下に求むべきであったのである。一番居士の親近者であるという事が、決して後継者としての唯一の資格ではなかったのである。現に今日に於てこれを見ても居士の後継者は天下に充満して居るのである。居士全体を継承していないまでも居士の何物かを受けて、各々これを祖述しつつあるのである。これがむしろ正当の意味に於ける後継者である。また他の方面からこれをいうと、たとい一小虚子であってもその虚子を居士の意のままに取扱いたいと考えたことはやや無理な註文であったともいえるのである。
 世の中はどうすることも出来ぬことが沢山ある。余は満腹の敬意を以て居士に接しながらも、またこの際に在って自分自身をどうすることも出来なかったのである。どうすることも出来ぬということは今日の余に在ってもなお少なからずある。人間の生涯はいつもそのどうすることも出来ぬ岐路に立っているものとも考えられるのである。
 居士が飄亭君に宛てた手紙の中に、「一語なくして家に帰る。虚子路より去る。さらでも遅き歩《あゆみ》は更に遅くなりぬ。懐手のままぶらぶらと鶯《うぐいす》横町に来る時小生の眼中には一点の涙を浮べぬ」とあるのもやはり此のどうすることも出来ぬ人間の消息を物語っているのである。
 居士の命《めい》が短かかっただけそれだけ余と居士との交遊は決して長かったとはいえぬのであるが、それでも此の道灌山の破裂以来も、なお他の多くの人よりも比較的親しく厚い交誼《こうぎ》を受け薫陶《くんとう》を受けた事は事実である。だから一面からこれを見ると、その婆の茶店の出来事というのも畢竟一時の小現象に過ぎなかったので、前後を一貫してその底深く潜めるところのものの上には何の変るところもなかったともいえるのである。が、また他の一面からこれを見ると、それと反対に居士と余とは遂に支吾を来さねばならぬ運命に在ったので、その最初の発現が道灌山の出来事であったともいえるのである。更に一歩を進めて言えば、爾来《じらい》居士の歿年である明治三十五年までおよそ六年間の両者の間の交遊は寧ろその道灌山の出来事の連続であったともいえるのである。かつて碧梧桐君は「居士は虚子が一番好きであったのだ。」と言った。居士が最後の息を引き取った時枕頭に在った母堂は折節共に夜伽《よとぎ》をせられていた鷹見氏の令夫人を顧みて「升は一番|清《きよ》さんが好きであったものだから、なにかというと清さんにお世話になりました。」と言われた。余はそう言って泣かれた母堂を見てただ黙って坐っていた。余は此の碧梧桐君の言も母堂の言も決して否認しようとは思わぬ、実際居士は最も深く余を愛していてくれたように思われる。余もまた何人よりも一番深く居士を信頼していた。居士の言行は一に余の脳裏に烙印《やきいん》せられていて今もなお忘れようとしても忘れることは出来ぬのである。それにかかわらず道灌山以来余と居士との間にはどうすることも出来ぬある物が常に常に存在していたという事はまた止むを得ぬ事であった。
 明治二十九年に入って後ち居士の腰痛は緩んだり激しくなったりした。そうしてそれが遂に僂麻質斯《りうまちす》でなくて結核性の脊髄炎であると判ったのは三月の中旬の事であった。この時居士が折節帰省中であった余に与えた手紙は面白い消息を伝えておる。少し長いけれどもそれをここに載することにする。

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「貴兄驚き給うか。僕は自ら驚きたり。今日の夕暮ゆくりなくも初対面の医師に驚かされぬ。医師は言えり。この病は僂麻質斯にあらずと。
 歩行し得ざる事ここに五旬、体温高き時は三十九度に上り低き時は三十五度七分に下《くだ》る。たちまち寒くして粟《あわ》肌に満ち、たちまち熱くして汗胸を濡《うる》おす。しかも
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