に対する居士の返答は極めて冷静な文句で、学校の課程を踏まずに直ちに小説家になる御決心の由、御勇気のほどは感服する、けれども貴兄は家族の係累等はどうなのか、学校を卒業しておけばまず食うに困るような事はないが、今から素手《すで》で世の中に飛出す以上は饑渇《きかつ》と戦う覚悟がなけりゃならぬ、なお鴎外、露伴らに紹介せよとの事だが、自分はまだ逢った事もない、たとい自分が紹介の労を取るにしたところで、門下生になってどれほど得る処があるかそれは疑問だと思う、とこういう意味の返辞であった。その頃十八、九歳の田舎青年であった余は、この衣食問題を提供されて実は一方《ひとかた》ならず驚愕《きょうがく》したのであった。そうしてこの時以来、仙台第二高等学校を中途退学するまで余の頭には実に文芸|憧憬《どうけい》の情と衣食問題とが常に争闘を続けていたのであった。
 とにかくこの居士の手紙を受取ってから余は考えずにはいられなかった。「飯を食う」という実際問題にいつも悶《もだ》え難《なや》んでいた。何だか自分のようなか弱い人間にそんな恐ろしい現実問題が解決が出来るであろうかというような恐怖の情に襲われることがしばしば
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