は非常に密接になった。
その前から、明治三十年の頃から、居士は和歌の革新を思い立ってその方に一半の努力を割《さ》いていたのであったが、その方は余も碧梧桐君もあまり関係はなかった。初めの間は和歌の会に案内を受けて二、三度行ったこともあったが、余らの作は俳句の調子になってどうも和歌らしいものが出来なかったのでそのまま止めてしまった。碧梧桐君も同様であったように記憶する。それで余らは単に俳句の方の門下生として居士の許に時々顔を出すに過ぎなかったのであったが、いよいよ『ホトトギス』を東京に移して晴々しく文壇に打って出ることになってから、居士の注意も暫くは此の雑誌の方に傾いていたようであり、自然その当事者たる余は最も居士と交渉が多かった。
碧梧桐君初め多くの同人の頭には、
「虚子が東京で雑誌を遣るそうであるが、そんな馬鹿なことをして成功するものか。」というような軽侮の念があったことは隠くされぬ事実であった。もっともそういう風に同人から同情を得なかったという事は余の注意が行届かなかったのも一つの原因を為《な》しておる。由来余は感興に任せて事をするためにいつもそのステップを踏むことを忘れるのであ
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