た。けれどもこの時の余は、截然《せつぜん》としてその委託を謝絶するほどの勇気もなかった。余はただぼんやりとそれを聴きながらただ点頭《うなず》いていた。
その夜は蚊帳《かや》の中に這入《はい》ってからも居士は興奮していて容易に眠むれそうにもなかった。当日の居士の句に、
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蚊帳に入りて眠むがる人の別れかな
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とかいうのがあったかと思う。余は蚊帳に入ると殆ど居士の話も耳に入らぬように睡ってしまった。
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須磨にて虚子の東帰を送る
贈るべき扇も持たずうき別れ 子規
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余は此の句に送られて東《ひがし》に帰った。
居士の保養院に於ける言葉はその後余の心の重荷であった。そこで余は帰東早々これを碧梧桐君に話し、早稲田専門学校に坪内先生のセークスピヤの講義を聴くことをも一つの目的として高田馬場のある家に寓居を卜した。此の家はもと死んだ古白君の長く仮寓していた家であったという事が余をしてこの家を卜せしむるに至った主な原因であった。
専門学校の入学試験は容易であったが、不幸にして坪内先生の講義はセークスピヤ
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