に充ちていた。
 この病院の副院長は江馬《えま》医学士であった。これは江馬|天江《てんこう》翁の令息であって、自然羯南氏から天江翁を通じて特別に依頼でもあったのであろう、常に注意深く居士を見舞っていた。余が初めて医局に同氏を尋ねて病状を聞いた時、氏は眉をひそめて、
「少しも滋養物が摂《と》れぬので一番困ります。」と言った。居士は匙《さじ》の牛乳をも摂取せぬことが既に幾日か続いているのであった。碧梧桐君の令兄の竹村|黄塔《こうとう》君は師範学校の教授をしてこの地に在住してるので朝暮《ちょうぼ》病室に居士を見舞った。
「お前が来ておくれたので安心した。」殆ど居士の生死《しょうし》を一人で背負っていたかのような感があった黄塔君は、重荷を卸《おろ》したような顔をして余に言った。それから入院費用の事やその他万般に就いて日本新聞社から依頼されていた事を黄塔君はすべて余に一任した。余は病床日誌と金銭出納簿とを拵《こしら》えて、それに俳句を書くような大きなぞんざいな字で、咯血の度数や小遣の出入《でいり》を書いた。
 附添婦というのが、あばずれた上方女であって、世間的の応対に初心であった余を頭から馬鹿に
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