、どうおした。」と聞いた。この時余の顔と居士の顔とは三尺位の距離ほかなかったのであるが、更に居士は余を手招きした。手招きと言ったところで、けだるそうに布団の上に投げかけている手を少し上げて僅に指を動かしたのであった。余はその意をさとって居士の口許に耳を遣ると、居士は聞き取れぬ位の声で囁《ささや》くように言った。
「血を吐くから物を言ってはいかんのじゃ。動いてもいかんのじゃ。」
 たちまち余の鼻を打ったのは血なま臭い匂いであった。居士の口中からともなく布団の中からともなく一種の臭気が人を襲うように広がった。余は憮然《ぶぜん》として立ちすくんだ。
 その時余の後ろに立ったのは五十近い附添婦であった。余の室に這入った時たまたま外に在った附添婦は手に一つのコップを持って帰って来たのであった。居士は間もなく激しい咳嗽《がいそう》と共にそのコップに半分位の血を吐いた。そういう事は一日に数回あった。その度附添婦はその赤いものに充たされたコップを戸外に持って行ってはそれを潔《きよ》めて帰って来た。時に枕《まくら》切れなどを汚すことがあるとそれも注意して取りかえたが、それでも例の血なま臭い匂いは常に室内
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