するような人でなかった事は事実が一々これを証明する。この従軍志望の如きはその著しきものの一つである。晩年に在っても興津移転問題の如きはその最も露骨なるものであって、もし居士の体が今少し自由が利いたなら居士は何人の言をも排して断行したに相違なかった。もっとも居士は軽挙はしなかった。けれども居士の口より何故に人に相談せぬかとの非難を受くることは余の甘受し難きところのものであった。
 居士は一夕碧梧桐君と余とを携えてそこに別離を叙し別るるに臨んで一封の書物《かきもの》を余らに渡した。それは余らを訓戒するというよりも寧ろ居士自身の抱懐を述ぶる処のものであった。居士はこの従軍を以て二個の目的を達するの機運とした。その一は純文学上の述作、その二はこの事もし能わずともこれによって何らか文学上の大事業を為し得可《うべ》しというに在った。
 旧暦の雛《ひな》の節句前後居士は広島の大本営に向って出発した。余はどういうものだかその新橋出発当時の光景を記憶して居らぬ。ただ居士が出発当日の根岸庵の一室を記憶して居る。
 居士は新調の洋服を着つつある。その傍には古白君が、
「万歳や黒き手を出し足を出し……。」と何
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