う字には二重圏点が施してあったと記憶する。居士がその後一念に俳句革新に熱中したのはこの時の決心が根柢になっていることと思う。そこでその「月の都」を懐にして露伴和尚を天王寺畔に訪うた時も、小説談よりもかえって俳句の唱和の方が多かったようである。
京都清遊の後、居士はたちまち筆硯《ひっけん》に鞅掌《おうしょう》する忙裡《ぼうり》の人となった。けれども閑《かん》を得れば旅行をした。「旅の旅の旅」という紀行文となって『日本』紙上に現われた旅行はその最初のものであった。この時分から居士の手紙には何となく急がしげな心持がつき纏《まと》っていた。染々《しみじみ》と夜を徹して語るというようなゆったりした心持のものはもう見られなくなった。その旅中伊豆の三島から一葉の写真を余の下宿に送ってくれた。それは菅笠を下に置いて草鞋《わらじ》の紐《ひも》を結びつつある姿勢で、
[#ここから3字下げ]
甲かけに結びこまるゝ野菊かな
[#ここで字下げ終わり]
という句が認《したた》めてあった。余は京都に在る間『日本新聞』は購読しなかったのであるが、この紀行と前後して居士の俳論、俳話は日々の紙上に現われてそれらは俳句革
前へ
次へ
全108ページ中17ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
高浜 虚子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング