病床に行く時に妹君も次の間から出て来られた。
その時母堂が何と言われたかは記憶していない。けれどもこういう意味の事を言われた。居士の枕頭に鷹見氏の夫人と二人で話しながら夜伽《よとぎ》をして居られたのだが、あまり静かなので、ふと気がついて覗いて見ると、もう呼吸《いき》はなかったというのであった。
妹君は泣きながら「兄さん兄さん」と呼ばれたが返事がなかった。跣足《はだし》のままで隣家に行かれた。それは電話を借りて医師に急を報じたのであった。
余はとにかく近処にいる碧梧桐、鼠骨二君に知らせようと思って門《かど》を出た。
その時であった、さっきよりももっと晴れ渡った明るい旧暦十七夜の月が大空の真中に在った。丁度一時から二時頃の間であった。当時の加賀邸の黒板塀と向いの地面の竹垣との間の狭い通路である鶯横町がその月のために昼のように明るく照らされていた。余の真黒な影法師は大地の上に在った。黒板塀に当っている月の光はあまり明かで何物かが其処《そこ》に流れて行くような心持がした。子規居士の霊が今空中に騰《のぼ》りつつあるのではないかというような心持がした。
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子規逝くや十
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