動、草木号叫。女蝸《じょか》氏未だこの足を断じ去って、五色の石を作らず。(十四日)
▲芭蕉が奥羽行脚の時に尾花沢という出羽の山奥に宿を乞うて馬小屋の隣にようよう一夜の夢を結んだ事があるそうだ。ころしも夏であったので、
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蚤《のみ》虱《しらみ》馬のしとする枕許
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という一句を得て形見とした。しかし芭蕉はそれほど臭気に辟易《へきえき》はしなかったろうと覚える。
▼上野の動物園にいって見ると(今は知らぬが)前には虎の檻《おり》の前などに来るともの珍らし気に江戸児のちゃきちゃきなどが立留って見て鼻をつまみながら、くせえくせえなどと悪口をいって居る、その後へ来た青毛布《あおげっと》のじいさんなどは一向匂いなにかは平気な様子でただ虎のでけえのに驚いている。(十五日)
▼芳菲山人《ほうひさんじん》より来書。(十七日)
拝啓昨今御病床六尺の記二、三寸に過《すぎ》ず頗《すこぶ》る不穏に存候間《ぞんじそうろうあいだ》御見舞申上候|達磨《だるま》儀も盆頃より引籠り縄鉢巻《なわはちまき》にて筧《かけひ》の滝に荒行中|御無音致候《ごぶいんいたしそうろう》。
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俳病の夢みなるらんほとゝぎす拷問などに誰がかけたか
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 即ち居士の日課の短文――『病牀六尺』――はこれで終末を告げている。そうして居士は越えて一日、九月十九日の午前一時頃に瞑目《めいもく》したのであった。実に居士は歿前二日までその稿を続けたのであった。
 もっともそれらの文章は、代り合って枕頭に侍していた我らが居士の口授を筆記したものであった。前に陳《の》べた余が居士の足を支えたというのはたしか十三日であったかと思う。
 十三日の夜は余が泊り番であった。余は座敷に寝て、私《ひそ》かに病室の容子を窺《うかが》っていたのであったが、存外やすらかに居士は眠った。居士の眼がさめたのはもう障子が白んでからであった。
 まず居士は糞尿の始末を妹君にさせた。その時、「納豆々々」という売声が裏門に当る前田の邸中に聞こえた。居士は、
「あら納豆売が珍らしく来たよ。」と言った。それから、「あの納豆を買っておやりなさいや。」と母堂に言った。母堂は縁に立ってその納豆を買われた。
 居士はこの朝は非常に気分がいいと言って、余に文章を筆記させた。「九月十四日の朝」と題する文章がそれで、それは当時の『ホトトギス』に載せ、『子規小品文集』中にも収めてある。

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    九月十四日の朝
 朝蚊帳の中で目が覚めた。なお半ば夢中であったがおいおいというて人を起した。次の間に寝ている妹と、座敷に寝ている虚子とは同時に返事をして起きて来た。虚子は看護のためにゆうべ泊ってくれたのである。雨戸を明ける。蚊帳をはずす。この際余は口の内に一種の不愉快を感ずると共に、喉《のど》が渇いて全く湿いのない事を感じたから、用意のために枕許の盆に載せてあった甲州|葡萄《ぶどう》を十粒ほど食った。何ともいえぬ旨さであった。金茎の露一杯という心持がした。かくてようように眠りがはっきりと覚めたので十分に体の不安と苦痛とを感じて来た。今人を呼び起したのも勿論それだけの用はあったので、直ちにうちの者に不浄物を取除けさした。余は四、五日前より容体が急に変って、今までも殆ど動かす事の出来なかった両脚がにわかに水を持ったように膨れ上って一分も五厘も動かす事が出来なくなったのである。そろりそろり脛と皿の下へ手をあてがって動かして見ようとすると、大磐石の如く落着いた脚は非常の苦痛を感ぜねばならぬ。余はしばしば種々の苦痛を経験した事があるが、この度の様な非常な苦痛を感ずるのは始めてである。それがためにこの二、三日は余の苦しみと、家内の騒ぎと、友人の看護|旁《かたがた》訪い来るなどで、病室には一種不穏の徴を示して居る。昨夜も大勢来て居った友人(碧梧桐、鼠骨、左千夫、秀真、節《たかし》)は帰ってしもうて余らの眠りに就いたのは一時頃であったが、今朝起きて見ると足の動かぬ事は前日と同じであるが、昨夜に限って殆ど間断なく熟睡を得たためであるか精神は非常に安穏であった。顔はすこし南向きになったままちっとも動かれぬ姿勢になっているのであるが、そのままにガラス障子の外を静かに眺めた。時は六時を過ぎた位であるが、ぼんやりと曇った空は少しの風もない甚だ静かな景色である。窓の前に一間半の高さにかけた竹の棚には葭簀《よしず》が三枚ばかり載せてあって、その東側から登りかけて居る糸瓜《へちま》は十本ほどのやつが皆痩せてしもうて、まだ棚の上までは得取りつかずに居る。花も二、三輪しか咲いていない。正面には女郎花《おみなえし》が一番高く咲いて鶏頭はそれよりも少し低く五、六本散らばって居る。秋海棠《しゅ
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