子規居士と余
高浜虚子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)遣《や》って

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)夕|其処《そこ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「王+二点しんにょうの進」、第4水準2−81−2]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)しば/\
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    一

 松山城の北に練兵場がある。ある夏の夕|其処《そこ》へ行って当時中学生であった余らがバッチングを遣っていると、其処へぞろぞろと東京がえりの四、六人の書生が遣《や》って来た。余らも裾《すそ》を短くし腰に手拭《てぬぐい》をはさんで一ぱし書生さんの積《つも》りでいたのであったが、その人々は本場仕込みのツンツルテンで脛《すね》の露出し具合もいなせなり腰にはさんだ手拭も赤い色のにじんだタオルなどであることがまず人目を欹《そばだ》たしめるのであった。
「おいちょっとお借しの。」とそのうちで殊《こと》に脹脛《ふくらはぎ》の露出したのが我らにバットとボールの借用を申込んだ。我らは本場仕込みのバッチングを拝見することを無上の光栄として早速それを手渡しすると我らからそれを受取ったその脹脛の露出した人は、それを他の一人の人の前に持って行った。その人の風采《ふうさい》は他の諸君と違って着物などあまりツンツルテンでなく、兵児帯《へこおび》を緩《ゆる》く巻帯にし、この暑い夏であるのにかかわらずなお手首をボタンでとめるようになっているシャツを着、平べったい俎板《まないた》のような下駄を穿《は》き、他の東京仕込みの人々に比べあまり田舎者の尊敬に値せぬような風采であったが、しかも自ら此の一団の中心人物である如く、初めはそのままで軽くバッチングを始めた。先のツンツルテンを初め他の諸君は皆数十間あとじさりをして争ってそのボールを受取るのであった。そのバッチングはなかなかたしかでその人も終には単衣《ひとえ》の肌を脱いでシャツ一枚になり、鋭いボールを飛ばすようになった。そのうち一度ボールはその人の手許《てもと》を外れて丁度《ちょうど》余の立っている前に転げて来たことがあった。余はそのボールを拾ってその人に投げた。その人は「失敬。」と軽く言って余からその球を受取った。この「失敬」という一語は何となく人の心を牽《ひ》きつけるような声であった。やがてその人々は一同に笑い興じながら、練兵場を横切って道後の温泉の方へ行ってしまった。
 このバッターが正岡子規その人であった事が後になって判った。
 それから何年後の事であったか覚えぬが、余は中学を卒業する一年半ばかり前、ふと『国民之友』が初めて夏季附録を出して、露伴の「一|口剣《こうけん》」、美妙斎《びみょうさい》の「胡蝶」、春の屋の「細君」、鴎外の「舞姫」、思軒の「大東号航海日記」を載せたのを見て、初めて自分も小説家になろうと志し、やがて『早稲田文学』、『柵草紙《しがらみぞうし》』等の愛読者となった。それから同級の親友|河東秉五郎《かわひがしへいごろう》君にこの事を話すと、彼もまた同じ傾向を持って居るとの事でそれ以後二人は互に相倚《あいよ》るようになった。それから河東君は同郷の先輩で文学に志しつつある人に正岡子規なる俊才があって、彼は既に文通を試みつつあるという事を話したので、余も同君を介して一書を膝下《しっか》に呈した。どんな事を書いて遣ったか覚えぬがとにかく自分も文学を以て立とうと思うから教を乞いたいと言って遣った。それに対する子規居士の返書は余をして心を傾倒せしめるほど美しい文字で、立派な文章であった。これから河東君と余とは争って居士に文通し、頻《しき》りに文学上の難問を呈出した。居士は常にそれに対して反覆丁寧なる返書をくれた。それは巻紙の事もあったが、多くは半紙もしくは罫紙《けいし》を一|綴《つづり》にし切手を二枚以上|貼《は》ったほどの分量のものであった。
 子規居士は手紙の端にいつも発句《ほっく》を書いてよこし、時には余らに批評を求めた。余らは志が小説にあるのであるから更にこの発句なるものに重きを置くことが出来なかった。しかも近松を以て日本唯一の文豪なりと『早稲田文学』より教えられていたのが、居士によって更により以上の文豪に西鶴なるもののある事を紹介されて以来、我らは発句を習熟することが文章上達の捷径《しょうけい》なりと知り、その後やや心をとめて翫味《がんみ》するようになった。

    二

 余は一本の傘《からかさ》を思います。それはどうしたのかはっきり判らぬがとにかく進藤|巌《いわお》君が届けてくれたのだ。進藤巌君というのは中学の同級生であった
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