。たしか、余が子規居士の家を訪問して忘れて帰った傘を巌君が届けてくれたのかと覚えて居る。その頃子規居士は夏休みで帰省していたのである。
それからまたこういう事を覚えて居る。一人《いちにん》の大学の制服をつけた紳士的の態度の人が、洋服の膝《ひざ》を折って坐って居る、その前に子規居士も余も坐って居る、表には中の川が流れている。これは居士の家の光景で、その大学の制服を着ている人は夏目漱石君であった。何でも御馳走《ごちそう》には松山|鮨《ずし》があったかと思う。詩箋《しせん》に句を書いたのが席上に散らかっていたようにも思う。
三津の生簀《いけす》で居士と碧梧桐君と三人で飯を食うた。その時居士は鉢の水に浮かせてあった興居《ごご》島の桃のむいたのを摘《つま》み出しては食い食いした。その帰りであった。空には月があった。満月では無くて欠けた月であった。縄手《なわて》の松が黒かった。もうその頃汽車はあったが三人はわざと一里半の夜道を歩いて松山に帰った。それは、
「歩いて帰ろうや。」という居士の動議によったものであった。その帰りに連句を作った。余と碧梧桐君とは連句というものがどんなものかそれさえ知らなかったのを居士は一々教えながら作るのであった。何でも松山に帰り着くまでに表六句が出来ぬかであった。そうして二、三日経って居士はそれを訂正して清書したものを余らに見せた。もし今|獺祭書屋《だっさいしょおく》旧子規庵を探したらその草稿を見出すのにむずかしくはあるまい。居士は如何なる場合にいい捨てた句でも必ずそれを書き留めて置く事を忘れなかったのである。
こういう事もあった。
海中に松の生えた岩が突出して居る。
「おい上ろう。上ろう。」と新海非風《にいのみひふう》君が言う。
「上ろう。テレペンが沢山あるよ。」と言ったのが子規居士である。舟が揺れて居る。二人の上ったあとの舟中に取り残されたのは碧梧桐君と余とであった。間もなく碧梧桐君もその岩に掻《か》き上ってしまって最後には余一人取り残された。
非風君はその頃肺を病んでいた。たしかこの時であったと思う、非風君がかっと吐くと鮮かな赤い血の網のようにからまった痰《たん》が波の上に浮いたのは。
「おいおい少し大事にしないといけないよ。」と子規居士は注意するように言った。
「ハハハハ」と非風君は悲痛なような声を出して笑い、「おい升《のぼ》さん(子規居士の通称)泳ごうや。」
「乱暴しちゃいけないよ。」子規居士は重ねて言う。
「かまうものか。血位が何ぞな。どうせ死ぬのじゃがな。」と非風君は言う。
居士の病後のみを知って居る人は居士はあまり運動などはしなかった人のように思うであろうが、あれでなかなかそうでもなかったらしい。べースボールなどは第一高等学校のチャンピオンであったとかいう事だ。居士の肺を病んだのは余の面会する二、三年前の事であったので、余の逢った頃はもう一度|咯血《かっけつ》した後《の》ちであった。けれどもなお相当に蛮気があった。この時もたしか艪《ろ》を漕いだかと思う。ただ非風君ほど自暴《やけ》ではなかった。非風君の方が居士より三、四年後に発病したらしかったがその自暴のために非風君の方が先に死んだ。居士は自暴を起すような人ではなかった。
同勢三、四人で一個の西瓜《すいか》を買って石手川へ涼みに行き、居士はある石崖の上に擲《な》げつけてそれを割り、その破片をヒヒヒヒと嬉しそうに笑いながら拾って食った事もあった。
今の代議士|武市庫太《たけいちくらた》君の村居を訪うた事も覚えて居る。その同勢は子規、可全《かぜん》、碧梧桐の三君と余とであったかと思う。可全君というのは碧梧桐君の令兄である。
これらは居士が大学在学中二、三度松山に帰省した間の片々たる記憶である。
三
居士の帰省中に、も一つこういう事があったのを思い出した。余は二階の六畳に寝転んで暑い西日をよけながら近松|世話浄瑠璃《せわじょうるり》や『しがらみ草紙』や『早稲田文学』や西鶴ものなどを乱読しているところに案内も何もなく段梯子《だんばしご》からニョキッと頭を出したのは居士であった。上に上って来るのを見ると袴を穿《は》いて風呂敷包みを脇に抱えて居る。居士が袴を穿いているのは珍らしいので「どうおしたのぞ。」と聞くと、
「喜安※[#「王+二点しんにょうの進」、第4水準2−81−2]太郎《きやすしんたろう》はお前知っといじょうが。あの男から講演を頼まれたので今それを遣って来たところよ。」
「そうかな。何を講演おしたのぞ。」
「文章談をしたのよ。」とそれから間もなくその風呂敷包を開いて一つの書物を取り出して見せたのは浪六《なみろく》の出世小説『三日月《みかづき》』であった。それから「内容は俗なものだけれど、文章は引締っていてなかなか旨《う
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