ま》い処があるぞな。」と居士は言う。
「そんなに旨いのかな。露伴より旨いのかな。」
「もっとも私《あし》は馬鹿にしていて二、三日前まで読まなかったのだが、読んで見るとなかなか旨いから、今日持って行って材料にしたのよ。そりゃ内容から言ったら露伴の方が遥《はるか》に高尚だけれども文章はところどころ露伴よりも旨いと思われる処がある。」とそれから一々その書物を開きながら、この句がいい、この句が力があるというような事を説明した。
今『英語青年』を主幹している喜安君はこの事を覚えているや否や。
四
余が文学上の書籍に親しんだのは中学卒業の一年前位からの事で、前言った通り『国民の友』、『早稲田文学』、『しがらみ草紙』、『城南評論』、それに近松物、西鶴物、露伴物、紅葉物、高田早苗氏の『美辞学』、中江篤介《なかえとくすけ》訳の『維氏美学《いしびがく》』、それらを乱読して東都の空にあこがれていた。そうしてある時子規居士に手紙を送って、小説を書くためには学校生活を遣るよりも中学を卒《お》えた上直ちに上京して鴎外氏なり露伴氏なりの門下生になりたいと思うが周旋をしてくれぬか、と言って遣った。それに対する居士の返答は極めて冷静な文句で、学校の課程を踏まずに直ちに小説家になる御決心の由、御勇気のほどは感服する、けれども貴兄は家族の係累等はどうなのか、学校を卒業しておけばまず食うに困るような事はないが、今から素手《すで》で世の中に飛出す以上は饑渇《きかつ》と戦う覚悟がなけりゃならぬ、なお鴎外、露伴らに紹介せよとの事だが、自分はまだ逢った事もない、たとい自分が紹介の労を取るにしたところで、門下生になってどれほど得る処があるかそれは疑問だと思う、とこういう意味の返辞であった。その頃十八、九歳の田舎青年であった余は、この衣食問題を提供されて実は一方《ひとかた》ならず驚愕《きょうがく》したのであった。そうしてこの時以来、仙台第二高等学校を中途退学するまで余の頭には実に文芸|憧憬《どうけい》の情と衣食問題とが常に争闘を続けていたのであった。
とにかくこの居士の手紙を受取ってから余は考えずにはいられなかった。「飯を食う」という実際問題にいつも悶《もだ》え難《なや》んでいた。何だか自分のようなか弱い人間にそんな恐ろしい現実問題が解決が出来るであろうかというような恐怖の情に襲われることがしばしばであった。この余の煩悶を碧梧桐君が居士に通告して遣った時に居士はあまり薬が利き過ぎたと思ったのか、今度は大に余を激励して来た。それに対して余は「飯が食えぬ」という文章を作って解嘲《かいちょう》したこともあった。
中学四年までは学校の試験の成績というような事を大いなる興味を持っていた余は、反動的に極端に学校生活というものを憎むようになった。そこで居士はその頃の居士自身の傾向には反対した事をよく認《したた》めて余に送ってくれた事もあった。けれどもその余所行《よそゆ》きの忠告の文句の裡《うち》に余は居士自身の煩悶を体読せずにはおかなかった。居士の煩悶というのは、やはり学校生活を中止して文学に立とうという一つのあせり[#「あせり」に傍点]であった。もっとも居士はその二、三年前咯血をしてから、功を急ぐ念が強くなっていた。かくして居士はその後両三年ならずして退学を決行したのであった。余もそれに遅るる一、二年にしてまた退学を決行した。「石橋《しゃっきょう》」という能がある。親獅子は舞台に出て舞い、子獅子は橋がかりで舞うのであるが、ちょっと余と子規居士との関係はそういったような状態であった。居士はまだ舞ってはいかぬいかぬと言いながら舞台で舞い始めたので、余は堪《こら》えずに橋がかりで舞い出したのであった。碧梧桐君もその頃は殆ど余と同身一体のような有様であった。性格の全く異った二人は常に同一行動を取っていた。橋がかりの子獅子は二匹であったのである。
さて余は中学を三月に卒業して九月に京都の第三高等学校に入学することになった。京都遊学が近づいて来るに従ってさすがに嫁入り前の娘のような慌だしい心持がせぬでもなかった。自然その頃は子規居士との手紙の往復よりも、京都の学校に在《あ》る先輩との手紙の往復の方が多くなった。いよいよ京都に行ってからも下宿の番地を知らしたきり位であまり居士とは通信もしなかったように思う。一段高い学府に籍を置いたという厳粛な感じに支配せられて燈下に膝を折って下読みにいそしむ事も多く、同時にまた松山の狭い天地を出て初めて大きな都に出たという満足の下にその千年前の旧都を飽きもせずに彷徨《うろつ》き廻る日も多かった。歴史があり、物語があり、繁華がある。それらは暫《しばら》くの間若い心を躍らせて常に憧憬の衢《ちまた》であった東都の空を想う念も暫くの間は薄らいでいた。
そ
前へ
次へ
全27ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
高浜 虚子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング