倉のひだにあらで写生のひだにもはらよるべし
飴売のひだは誠のひだならず誠のひだが美の多きひだ
人の衣に仏のひだをつけんことは竹に桜をつけたらんが如し
第一に線の配合其次も又其次も写生/\なり
[#ここで字下げ終わり]
 これは秀真君の作である飴売の襞《ひだ》が型にはまった襞であって面白くない、ぜひ共実際の衣の襞を研究してその写生をせねばいかぬというのである。写生という言葉のくり返してあるところに居士の主張は観取されるのである。最後の歌に「第一に線の配合」とありて写生以上になお線の配合なるものを置いているところは、居士は写生の上に大活眼を開きながらも、なお旧来の宿論たりし配合論に煩わされていると言っていいのである。もし余をして居士に代って言わしめるなら、
[#ここから3字下げ]
第一に写生其次も其次も又其次も写生/\なり
[#ここで字下げ終わり]
と言いたいと思う。線の配合の妙味もまた写生より得来るべきものではなかろうか。
 何はともあれ、居士はかくの如く何事にも研究的で、病を忘れ死を忘れ一日生きていれば一日研究するという態度ですべての事に向ったのであった。居士の病苦の慰藉は一に此の研究そのものに在った。
 その上居士はその研究の結果や自分の意見やを黙って仕舞《しま》い込んでおくことの出来ない人であった。まずこれを友人や門下生に話し、それに対する他人の意見を聴くことを楽みにしていた。殊に歿前一、二年は日課として短文を『日本新聞』に出し毎朝その自分の文章を見ることを唯一の楽しみにしていた。新聞社の都合でその文章が一日でも登載されぬことがあると居士の癇癪《かんしゃく》はたちまち破裂して早速新聞社に抗議を申込むのが常であった。ある時は、そんなに紙面の都合で載せられぬなら広告料を支払うから広告面に出してくれなどと言って遣ったことがあるように記憶する。そういう事をして居士は自ら生きる方法を講じていたのである。居士の体は殆ど死んでいたのを常に精神的に自ら生きる工夫を凝らしていたのであった。
 臨終前には大分足に水を持っていた。そこで少しでも足を動かすとたちまち全体に大震動を与えるような痛みを感じたのでその叫喚は烈しいものであった。居士自身ばかりでなく家族の方々や我々まで戦々|兢々《きょうきょう》として病床に侍していた。
 居士はその水を持った膝を立てていたが、誰かそれを支えているものがないとたちまち倒れそうで痛みを感ずるというので妹君《まいくん》が手を添えておられたがその手が少しでも動くとたちまち大叫喚が始まるのであった。ある時妹君が用事があって立たれる時に余は代ってその役目に当った。その頃の居士は座敷の方を枕にしていたので――臨終の時の姿勢もその時の通りであった――いつも座敷に坐っていた我らは暫く居士の顔を見なかったのであったが、そのいたましい脚に手を支えながら暫くぶりに見た居士の顔は全く死相を現じていたのに余は喫驚した。
 臨終に近い病人の床には必ず聞こゆる一種の臭気が鼻を突いた。大小便を取ることも自由でなかったのでその臭気は随分烈しかった。
「臭いぞよ。」と居士は注意するように余に言った。
「それほどでもない。」と余は答えた。
 左の手で、仰臥しておる居士の右脚を支えるのであったがじっと支えているうちに手がちぎれそうに痛くなって来た。けれどもその余の手が微動をしても忽ち大震動を居士の全身に与えることになるのだからじっと我慢していなければならなかった。それは随分辛かった。その上根岸は蚊が名物なので、そうやっている手にも首筋にも額にも蚊が来てとまる、それを打つことも払うことも出来ないので大《おおい》に弱った。その時居士はこんなことを言った。
「脇の修行が出来るよ。」と。それは微動もせずにじっと端坐しているのが、能の脇の修行になると戯れたのであった。その頃余も碧梧桐君も宝生金五郎《ほうしょうきんごろう》翁の勧めに従って脇連《わきづれ》などに出ていたのであった。
 前の臭いぞよ、と言った言葉も、この脇の修行が出来るよ、と言った言葉もすこし舌がもつれて明瞭には響かなかった。けれども十分に聞き取れぬほどではなかった。
 この頃でもなお居士は例の新聞に出す日課の短文を止めなかった。試に九月十二日以後の文を抜載する。

[#ここから1字下げ]
▲支那や朝鮮では今でも拷問《ごうもん》をするそうだが自分はきのう以来昼夜の別なく五体すきなしという拷問を受けた。誠に話にならぬ苦しさである。(十二日)
▲人間の苦痛はよほど極度へまで想像せられるがしかしそんなに極度にまで想像したような苦痛が自分のこの身の上に来るとは一寸想像せられぬ事である。(十三日)
▲足あり、仁王の足の如し。足あり、他人の足の如し。足あり、大磐石の如し。僅に指頭を以てこの脚頭に触るれば天地震
前へ 次へ
全27ページ中24ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
高浜 虚子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング