うかいどう》はなお衰えずにその梢を見せて居る。余は病気になって以来今朝ほど安らかな頭を持って静かにこの庭を眺めた事はない。嗽《うがい》をする。虚子と話をする。南向うの家には尋常二年生位な声で本の復習を始めたようである。やがて納豆売が来た。余の家の南側は小路にはなって居るが、もと加賀の外邸内であるのでこの小路も行き止りであるところから、豆腐売りでさえこの裏路へ来る事は極めて少ないのである。それでたまたま珍らしい飲食商人が這入って来ると、余は奨励のためにそれを買うてやりたくなる。今朝は珍らしく納豆売りが来たので邸内の人はあちらからもこちらからも納豆を買うて居る声が聞える。余もそれを食いたいというのではないが少し買わせた。虚子と共に須磨に居た朝の事を話しながら外を眺めて居ると、たまに露でも落ちたかと思ふように[#「思ふように」はママ]、糸瓜の葉が一枚二枚だけひらひらと動く。その度に秋の涼しさは膚に浸《し》む様に思うて何ともいえぬよい心持であった。何だか苦痛極って暫く病気を感じないようなのも不思議に思われたので、文章に書いて見たくなって余は口で綴る。虚子に頼んでそれを記してもろうた。筆記し了えた処へ母が来て、ソップは来て居るのぞなというた。
[#ここで字下げ終わり]

 もう自分の命が旦夕《たんせき》に迫っているのに奨励のために納豆を買わせるなどは居士の面目を発揮したものである。この文中に「須磨に居た朝の事を話す」とあるのは、独りこの日ばかりでなく、談話の材料に窮した時は余はいつも須磨を話題に選んだものであった。前にも書いたことがあるように須磨の静養は居士の生涯に於ける最も快適な一時期であったので、如何に機嫌の悪い時でも、どうかして話の蔓《つる》をたどってそれを須磨にさえ持って行けば、大概居士の機嫌は直おったのであった。この朝は初めから機嫌がよかったが、話は自然須磨に及んで居士はやや不明瞭な言葉で暫く楽しく語り合った。
「足あり仁王の如し……」云々《うんぬん》という記事もこの文章を書いた序《ついで》に余が筆記したもののように覚えて居る。
 その翌日の十五日の記事に糞尿の臭気の事が三項まで書いてあるのは居士自身病床の臭気に基いたものに相違ない。その二項共が臭気の弁護になっているところも居士の面目を発揮している。
 それから十六日には記事がなく、十七日には芳菲山人の来書が代りに載せてあって、十八日も欠け、十九日朝に永眠されたのであった。それから思うと十五日の臭気の記事を除くと、実に十四日の朝の記事は居士の最後の文章と言ってもいいものであったのである。
 十五日から十七日までのことは記憶が朧気《おぼろげ》であるが、十八日の午前であったか、午後であったか、余らが枕頭に控えていると居士は数日来同じ姿勢を取ったままで音もなく眠って居た。其処《そこ》へ宮本|仲《ちゅう》氏――医師――が見えて、
「どの辺が苦しいですか。」と聞いた。
「この辺一面に……」と居士は左の手で胸の当りを教えた。胸部には水が来て居ったが、手の方は痩せたままであったので、殆ど骨に皮を着せたような大きな手を広ろげるようにしてその胸部を教えた時の光景が目に染み込んでいる。
「そうですか。それでは楽にしてあげますよ。」と宮本氏は子供にでも言って聞かすような調子で言って何か粉薬を服用させた。それもガラス管で水を吸い上げるようにして飲んだのであった。
 それから居士は眠ったようであった。枕頭にいる我らも黙りこくっていた。沈鬱な空気が部屋に漂っていた。それから暫くして居士はまた目を覚まして、口が渇《かわ》くのであろう、
「水……」と言った。妹君は先刻服薬した時のようにやはりガラスの管《くだ》で飲ませた。居士はそれを飲んでから、
「今誰が来ておいでるのぞい。」と聞いた。妹君は枕頭に固まっていた我らの名を読み上げた。
 それから暫くの間の事は記憶していない、たしか余は他の人と交代して一応自分の家に引取ったものかと思う。
 その十八日の夜は皆帰ってしまって、余一人座敷に床を展《の》べて寝ることになった。どうも寝る気がしないので庭に降りて見た。それは十二時頃であったろう。糸瓜の棚の上あたりに明るい月が掛っていた。余は黙ってその月を仰いだまま不思議な心持に鎖《とざ》されて暫く突立っていた。
 やがてまた座敷に戻って病床の居士を覗いて見るとよく眠っていた。
「さあ清さんお休み下さい。また代ってもらいますから。」と母堂が言われた。母堂は少し前まで臥せっていられたのであった。そこで今まで起きていた妹君も次の間に休まれることになったので、余も座敷の床の中に這入った。
 眠ったか眠らぬかと思ううちに、
「清《きよ》さん清さん。」という声が聞こえた。その声は狼狽《ろうばい》した声であった。余が蹶起《けっき》して
前へ 次へ
全27ページ中26ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
高浜 虚子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング