と敬称するのもそういう敬語に慣れぬ余には不思議に思われた。その後しばしば余を訪問して遂に余の下宿に同宿した。その部屋には殆ど何の什器《じゅうき》もなくって、机の上に原稿紙があるのと火鉢の傍に煙管が転がっているばかりであった。障子を開けるといつも濛々《もうもう》たる煙の中に坐っていた。着替はもとより寝巻もなく本当の着のみ着のままというのはあの男の事であった。『国民の友』に「人寄席《ひとよせ》の話」を投書したのが縁となって遂に民友社に入社し下層の事情に通ずるので重宝がられていたがその後行方不明になって今に誰の処にも音信がない。大方死んだのであろうという左衛門君などの鑑定である。
 二、三日前の『国民新聞』の「忙閑競《ぼうかんくら》べ」の中《うち》に寄席の下足の話があったが、すべてああいう話が其村君の得意なところで、下足の誇りはそれを投げ出すと同時にチャンと下駄の並んでいるところに在るというようなことをあたかも自分の誇のようにしてドモリながら話していた。また余を縄暖簾《なわのれん》に伴《つ》れて行って初めて醤油樽に腰を掛けさせたのも其村君であった。其村君はいつでも袂《たもと》の底に銅銭や銀貨を少しばかり――ただし自分の所有全部――入れていたが、それをつかみ出してその時の支払をもしたことを覚えて居る。風呂屋に行った時着物を脱ぐ拍子にそれを板間にばら蒔《ま》いて黒い皮膚をした大きな裸の同君がそれを掻き集めた様《さま》などがまだ目に残っている。三十年の新年に初めて新年宴会が不忍《しのばず》弁天境内の岡田亭で催おされた。その時居士は車に乗って来会した。其村君が余興として軍談を語った。平生のドンモリに似合わず黒人《くろうと》じみて上手に出来た。
 あまり其村君の話が詳し過ぎたかも知れぬが、そういう其村君のような人も門下生の一人として集まって来たという事が如何に当時各種の人が居士の門下に走《は》せ集まったかという事を物語るに足ると考えたからである。
 芝の白金三光町にあった北里病院から『新俳句』という句集の現われたことも思いがけない出来事であった。それはその病院に入院中の上原|三川《さんせん》君と直野|碧玲瓏《へきれいろう》君とが――その外に東洋、春風庵《しゅんぷうあん》という二人の人もいた――『日本新聞』の句を切抜いて持っていたそれを材料として類題句集を編み、それを国民新聞社にいた中村|楽天《らくてん》君の周旋で民友社から出版したのであった。校正万端出版上の面倒は楽天君の隠れたる努力であった。この頃余は『国民新聞』の俳句の選者を依頼された。
 その頃余の一身上には種々の出来事があった。余は一時季兄を助けて芝に下宿を営んだ。それが緒についてから日暮里《にっぽり》に間借をして家を持ち、間もなく神田五軒町に一戸を構えて父となった。余は最早《もはや》放浪の児ではなくなった。出産の費用を得るために『俳句入門』を出版したり、小説めいたものを書いて今の『中央公論』の前身『反省雑誌』に寄せたりした。政教社と国民新聞から若干の給料を貰っていたがそれだけでは生計を支えるに足りなかった。
 明治三十年の一月に伊予の松山で柳原|極堂《きょくどう》君の手によって俳諧雑誌が発刊された。それが実に我『ホトトギス』であった。計らずもこの原稿を認《したた》める日、在伊予宇和島の増永|徂春《そしゅん》君から左の手紙の写しを送って来てくれた。これは『子規書簡集』にも洩れているものであるからここに全文を掲げる事にする。これは『ホトトギス』第一巻第一号が出来た時の評言で当時の消息が大体これによってわかる。

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『ほととぎす』落掌、まず体裁の以[#「以」に「(ママ)」の注記]外によろしく満足致し候《そうろう》。実は小生は今少しケチな雑誌ならんと存じ「反古籠《ほごかご》」なども少き方|宜《よろ》しからんとわざと少く致し候|処《ところ》甚だ不体裁にて御気毒に存《ぞんじ》候。さて編輯の体裁に就きて議すべきこと少からず、乍失敬《しっけいながら》アア無秩序にては到底《とうてい》田舎雑誌たるを免かれず候。
 第一俳諧随筆類と祝詞と前後したることは不体裁の極《きわみ》也。最初に発刊の趣旨を置き、次に祝詞祝句を載せ、その次に随筆類その次に俳句などにて宜しかるべくと存候。
 発刊の趣旨は色紙を用いざる方よろし。色紙を用いるならば祝詞祝句と随筆類との中間に挿《はさ》むかまたは他の文と募集句との中間に挿むかしてその上は募集句広告ばかりにてものせたし。
 第二募集句の第五等を四分詰にしたるも苦しそう也。これは小生兼て申上置《もうしあげおき》候通り多ければ下より御削り可相成《あいなるべく》候。御忘れありしか如何。もし出来得べくんば四等以上にも出たる人の句を削り、その外のかつかつ五等及第の句
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