っていやしない。その弟子や子分の思い遣りのない我儘《わがまま》な仕打に腹を立てて一々それに愛想をつかしていた日には一人は愚か半人の弟子もその膝下《しっか》に引きつけておくことは出来ないのである。為《な》すある師匠、為すある親分はその点に於て執着――愛――を持っておる。たとい弟子や子分の方から逃れようとしても容易にそれを逃しはしない。母の愛が子を抱《いだ》きしめるようにその一種の執着力はじっと弟子や子分を抱きしめていて、たといもがき逃れようとしても容易にそれを手離しはしない。そういう点に於て子規居士は十二分の執着――愛――を持っていた。たとい門下生同士で互に他の悪口を言って、何故あんなものを膝下によせつけるのかという風にそれを排擠《はいせい》することがあるとしても、またそういう人間が自分から遠ざかろうとしても、居士は仮りにも自分の門下生となったものは一人も半人もこれを手離すに忍びなかったようである。これは居士の愛が深かったともいえる。居士の慾が突張っていたともいえる。いずれにしても見様《みよう》言様《いいよう》である。居士はかつて余らが自己の俳句をおろそかにするのを誡《いまし》めてこういう事を言ったことがある。自分はたといどんな詰まらぬ句であっても一句でもそれを棄てるに忍びない。如何《いか》なる悪句でも必ずそれを草稿に書き留めておく。それは丁度金を溜める人が一厘五厘の金でも決して無駄にはしないというのと同じ事である。僅か一厘だから五厘だからと言ってそれを無駄にするような考があったら如何に沢山の収入のあるものでも金持になることは出来ない。それと同じ事で、たとい如何に沢山の句を作る人でも、その句を粗略にして書きとめておかないような人はとても一流の作者にはなれない。そういう点に於て私《あし》は慾張りであると。即ちこの意味に於て居士は慾張りであった。執着心があった。愛があった。
 松山で初めて居士に逢ってから神戸病院、須磨保養院、道灌山に至るまでの余は居士の周囲に在る一人《いちにん》として自ら影の濃い感じがするが、それ以後『ホトトギス』を余の手で出すようになるまでのおよそ三ヶ年間はよほど影の薄い感じがする。もっともこれはただ感じである。明治二十九、三十、三十一年の三年間は最も熱心に句作した年で、また居士が鳴雪翁、碧梧桐君らと共に余を社会に推挙した年で、それまでは放浪の一書生に過ぎなかったものがたちまち俳人として世に名を知らるるようになったのであるが、それでいて何となく影の薄い感じがする。というものはたとい居士によって社会に推挙され社会からは予期せざる待遇を受けるようになりながらもなお自己としては何処《どこ》までも放浪の書生で、居士の門下生として俳句を作っておる中《うち》に格別の興味も誇をも見出し得ないで、半《なかば》は懊悩《おうのう》し半は自棄しつつ、ただ本能に任せ快楽を追うのにこれ急であったのである。ある時居士は、「お前ももう少し気取ってもええのだがなあ。」と笑いながら余に言ったことがあった。余は淡路町の下宿に「大文学者」という四字を半紙に書いて壁に張りつけながら瘧《おこり》を病んでうんうん言っていたことがあった。居士はこの事を伝え聞いて、「大文学者の肝小さく冴《さ》ゆる」と同じく半紙に書いて余に送って来た。これは馬鹿気《ばかげ》た一笑話であるが、実をいえば十七字の短詩形である俳句だけでは満足が出来なかったのである。世人が子規門下の高弟として余を遇することは別に腹も立たなかったがそれほど嬉しいとも思わなかったのである。このとりとめもないような一種の空想は今もなお余を支配している。余は今でもなお学問する気はない。けれどもどこまでも大文学者にはなろうと思っておる。余の大文学者というのは大小説家ということである。それ以上を問うことは止めてもらいたい。ただ大小説家となろうと思っているのである。
 此の余が居士の周囲の一人として影の薄い時代に種々の俳人が居士の周囲を彩《いろど》った。その中《うち》に中野|其村《きそん》君のような人もあった。其村君は何人《なんぴと》の子で何国の産という事を知らない。ただ落語家の燕枝《えんし》の弟子であったとか博徒《ばくと》の子分であったとか饗庭篁村《あえばこうそん》氏の書生であったとかいう事のみが伝えられていた。三多摩郡《さんたまごおり》の吉野左衛門君の家に書生をしていた頃から『日本新聞』に投句して我ら仲間の人となったのである。余の下宿にも書生の目には珍らしい大きな菓子折を持って刺《し》を通じて来た。長大な体に汚い服装をして顔も煤《すす》け色をして、ドンモリで、一見立ちん坊を聯想するような男であった。赤い舌を出したりひっこめたりしながら余の知らぬ色んな面白い話をして聞かせた。三十に近い同君が二十二歳の余を先生先生
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