たのである。道灌山以来は「虚子は小生の相続者にもあらず小生は自ら許したるが如く虚子の案内者にもあらず」と飄亭に贈った手紙にある如く、居士は忠告の権利を放棄したように言明しているのであるが、それにかかわらず爾後もなお何かにつけて社会的の忠告を余に試みて、余をして居士の手紙を見るたびに、顔を見るたびに、一種の圧迫を感ぜしめるまでに至ったのであるが、それが一旦その点の問題を離れて、居士と何らの利害関係なきただ一個の人間として余を見た場合にはまた別個の消息があったのである。この手紙に在る如く、医師から結核性脊髄炎といういよいよ前途の短い病であることを宣告された時に居士の頭には例の社会的の野心問題が頭を擡《もた》げて一時は烈しい精神の昂奮を感じたのであるが、それを忘れるがために何物かを探した時、そこにいわゆる「平凡なる趣向、卑猥なる人物、浅薄なる恋」を描いた余の作物に接して、居士の心はかえって何物かに救われたような慰安を感じたものと見える。余は先に道灌山以来、どうすることも出来ぬある物が常に両者の間に存在していたと言ったが、それにかかわらずまた居士と余との間には終始変らぬある感情上の領会が恒久に存在していたのであった。
十二
いわゆる「自立の決心いよいよ深くなれり」と言った居士は何人にも頼むところなく万事を自己一人の力で遣って行こうという決心を堅くした。それは二十八年の暮から二十九年に掛けて一言一行の上にきびきびしく現われておる。殊に明治二十九年という年は居士によって唱道せられたいわゆる新俳句が非常の力を以て文壇の勢力となった年であった。が、それについて他の手ぬるっこい承認を待つよりも居士自身で「明治二十九年の俳句界」と題した長論文を『日本新聞』紙上に連載して自らこれを承認し評価した。これは『俳句界四年間』と題した俳書堂出版の俳諧叢書のうちに収録してある。――この頃『俳諧大要』という合冊本として重版されたもののうちに在る。
居士の門下に集う俳人はこの頃も已に少くはなかった。漸く病床を出ることが稀になった居士はそれらの俳人の来訪を受けて句作し評論する上に種々の便宜も多かった。他の多くの人が種々の社会上の出来事に駆使されたりまた物質上の快楽に牽引されたりする中に在って、居士は静かに俳句の研究に専念なることを得た。もとより居士の性格にも原由するが境遇もまたこれを助けたといってよい。その静かに方丈の室に閉じ籠《こも》っていわゆる野心を満足さするのもこれ、病苦を慰むものもこれ、純一|無雑《むぞう》の心持で一向専念に古俳句の研究、新俳句の主張にこれ日も足らなかった居士の眼から、その周囲に勝手気儘に行動しつつあった人々を見た時の心持はどうであったろう。剣呑《けんのん》でもあったろう、歯痒くもあったろう、片腹痛くもあったろう、残念でもあったろう。居士は飄亭君に対しても、碧梧桐君に対しても余に対しても、紅緑君に対しても、鼠骨君に対しても、殆ど何人に対しても、時としては鳴雪翁に対してすらも、直接もしくは間接に種々の忠言を試みることを忘れなかった。もう道灌山でお互に絶縁を宣言した間柄の余に対して居士はなおその事は忘れたように何かにつけて苦言を惜まなかった。余を唯一の後継者とする考はその時以来全く消滅したのであるが、しかし門下生の一人として出来るだけこれを引立てようとする考は以前と少しも変るところはなかった。
余はいつもその事を思い出す度に人の師となり親分となる上に是非欠くことの出来ぬ一要素は弟子なり子分なりに対する執着《しゅうじゃく》であることを考えずにはいられぬのである。たとえばそれは母が子を愛するようなものである。余の知っているある一人の寡婦《かふ》はただ一人の男の子の放蕩を苦にしながらもどうしてもそれを棄て去ることが出来ぬ。その親戚の多くはその子と絶縁してしまうことをその寡婦なりその一家なりの利益だとして時々忠告を試みるのであるけれども、寡婦は陰になり日南《ひなた》になりしてその子を暖き懐に抱きよせようとしておる。その結果その子は夙《と》くに堕落し切ってしまうはずのものがまだともかくそこまでの深淵に陥らずに踏み止まっておる。これは母の愛である。母の子に対する執着である。もしこの執着がなかったらその子は牢に入っておるかのたれ死をしておるか、いずれそういう結果になっているのはいうまでもないことであるが、同時にまたその母はただ一人の男の子をその手から失っているのである。曲りなりにもなお母一人子一人として互に頼り合っていることの出来るのはその母の執着――愛――の力である。これと同じ事で人の師匠となり親分となるのにも第一に欠くことの出来ぬものはこの執着である。弟子や子分は気儘《きまま》である、浮気である。決して師匠や親分が思っている半分の事も思
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