いっしゅく》らの松風会員諸君の日参して来るのを相手に句作に耽《ふけ》ったのであったが、その間に在って居士は『日本新聞』紙上に「俳諧大要」を連載し始めた。これはやはり松風会員の一人であった盲俳人|華山《かざん》君のために説くという形式によって居るが、その実居士の胸奥に漸く纏った自己の俳句観を天下に宣布したものであった。
 居士は二十八年の冬はもう東京に帰っていた。松山からの帰途須磨、大阪を過《よ》ぎり奈良に遊んだが、その頃から腰部に疼痛《とうつう》を覚えると言って余のこれを新橋に迎えた時のヘルメットを被っている居士の顔色は予想しておったよりも悪かった。須磨の保養院にいた時の再生の悦びに充ちていた顔はもう見ることが出来なかった。居士は足をひきずりひきずりプラットホームを歩いていた。
「リョウマチのようだ。」と居士は言った。けれどもそれはリョウマチではなかった。居士を病床に釘《くぎ》附けにして死に至るまで叫喚大叫喚せしめた脊髄腰炎はこの時既にその症状を現わし来つつあったのであった。
 居士が根岸の住みなれた庵《いおり》に病躯を横たえてから一月ばかり後のことであった。余に来てくれという一枚の葉書が来た。
 早速余は出掛けて行くと、少し話したいことがあるが、うちよりは他《よそ》の方がよかろうと言って居士は例のヘルメットを被って表に出た。余はそのあとに跟《つ》いて行った。頗る不機嫌な顔をした居士は黙々として先に立って行った。腰の痛みはあまりいい方でなかったのでその歩きぶりは気の毒にも苦しそうであった。余は大方の意味を了解していたのでやはり黙りこくってあとについて行った。稲は刈り取られた寒い田甫《たんぼ》を見遥るかす道灌山の婆の茶店に腰を下ろした時、居士は、
「お菓子をおくれ。」と言った。茶店の婆さんは大豆を飴《あめ》で固めたような駄菓子を一山持って来た。居士は、
「おたべや。」と言ってそれを余に勧《すす》めて自分も一つ口に入れた。居士は非常に興奮しているようであったが余はどういうものだか極めて冷かに落着いて来た。何も言わずにただ居士の唇《くちびる》の動くのを待っていた。
「どうかな、少し学問が出来るかな。」
 こう切り出した居士は、何故に学問をしないのかという事を種々の方面から余に問質《といただ》すのであった。殆ど二、三時間も婆の茶店に腰をかけていた間に、ものをいった時間は四分の一にも当らぬほどで二人の間にはむしろ不愉快な絶望的の沈黙が続いた。居士はもう自分の生命は二、三年ほかないものと覚悟した一つのあせりがもとになってじりじりと苛立《いらだ》っていた。二十三歳の快楽主義者であった余は、そういうせっぱ詰った苛立った心持には一致することが出来なかった。
「私《あし》は学問をする気はない。」と余は遂に断言した。これは極端な答であったかも知れぬがこう答えるより外に途がないほどその時の居士の詰問は鋭かった。が、また今日から考えて見ても此の答は正しい答であったと思う。余はたとい学問の興味が絶無でないまでも、生涯を通じて読書子ではないのである。余の弱味も強味も――もしそれがありとすれば――何れも此の非読書主義の所に在る。
「それではお前と私《あし》とは目的が違う。今まで私のようにおなりとお前を責めたのが私の誤りであった。私はお前を自分の後継者として強うることは今日限り止める。つまり私は今後お前に対する忠告の権利も義務もないものになったのである。」
「升《のぼ》さんの好意に背くことは忍びん事であるけれども、自分の性行を曲げることは私《あし》には出来ない。つまり升さんの忠告を容《い》れてこれを実行する勇気は私にはないのである。」
 もう二人共いうべき事はなかった。暮れやすい日が西に舂《うすづ》きはじめたので二人は淋しく立上った。居士の歩調は前よりも一層怪し気であった。
 御院殿《ごいんでん》の坂下で余は居士に別れた。余は一人になってから一種名状し難い心持に閉されてとぼとぼと上野の山を歩いた。居士に見放されたという心細さはもとよりあった。が同時に束縛されておった縄が一時に弛《ゆる》んで五体が天地と一緒に広がったような心持がした。今一つは多年余を誨誡《かいかい》し指導する事の上に責任と興味とを持っていた居士に今日の最後の一言で絶望せしめたという事に就いて申訳のないような悔恨の情もこみ上げて来た。
 居士が余に別れて独り根岸の家に帰って後ちの痛憤の情はその夜居士が戦地に在る飄亭君に送った書面によって明白である。その書面の結末に次の文句がある。
「今まででも必死なり。されども小生は孤立すると同時にいよいよ自立の心つよくなれり。」
 かくして居士はいよいよあせりいよいよいら立ち一方に病魔と悪戦しつつ文学界に奮闘を試みたのであった。

    十一

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