見ても、殆ど垂死の大病に取りつかれていた居士を失望さしたという事は申訳のないことであった。今少し余も心をひきしめ情を曲げて、その高嘱に負《そむ》かぬようにし、知己の感に酬《むく》ゆべきであったろう。がまた一方から考えて見ると、それは畢竟《ひっきょう》無益なことであって、たとい一寸《いっすん》逃れに居士及自己を欺いておいたところで、いつかは道灌山の婆の茶店を実現せずにはおかなかったのである。須磨の保養院で初めて居士から話を聞いた時に、截然として謝絶することが出来たらその上《うえ》越《こ》すことはなかったのであるが、その時それが出来なかった以上、婆の茶店で率直に断ったという事は双方に取って幸福なことであったとも考えられるのである。
のみならず、後継者を作るというようなことは、生い先きが短いと覚悟した居士に在っては、それが唯一の慰藉ともなるのであったろうが、冷かにこれを言えば、そういう事はやや幼稚な考であって、居士の後継者は決して一小虚子を以てこれに満足すべきではなくして、広くこれを天下に求むべきであったのである。一番居士の親近者であるという事が、決して後継者としての唯一の資格ではなかったのである。現に今日に於てこれを見ても居士の後継者は天下に充満して居るのである。居士全体を継承していないまでも居士の何物かを受けて、各々これを祖述しつつあるのである。これがむしろ正当の意味に於ける後継者である。また他の方面からこれをいうと、たとい一小虚子であってもその虚子を居士の意のままに取扱いたいと考えたことはやや無理な註文であったともいえるのである。
世の中はどうすることも出来ぬことが沢山ある。余は満腹の敬意を以て居士に接しながらも、またこの際に在って自分自身をどうすることも出来なかったのである。どうすることも出来ぬということは今日の余に在ってもなお少なからずある。人間の生涯はいつもそのどうすることも出来ぬ岐路に立っているものとも考えられるのである。
居士が飄亭君に宛てた手紙の中に、「一語なくして家に帰る。虚子路より去る。さらでも遅き歩《あゆみ》は更に遅くなりぬ。懐手のままぶらぶらと鶯《うぐいす》横町に来る時小生の眼中には一点の涙を浮べぬ」とあるのもやはり此のどうすることも出来ぬ人間の消息を物語っているのである。
居士の命《めい》が短かかっただけそれだけ余と居士との交遊は決して長かったとはいえぬのであるが、それでも此の道灌山の破裂以来も、なお他の多くの人よりも比較的親しく厚い交誼《こうぎ》を受け薫陶《くんとう》を受けた事は事実である。だから一面からこれを見ると、その婆の茶店の出来事というのも畢竟一時の小現象に過ぎなかったので、前後を一貫してその底深く潜めるところのものの上には何の変るところもなかったともいえるのである。が、また他の一面からこれを見ると、それと反対に居士と余とは遂に支吾を来さねばならぬ運命に在ったので、その最初の発現が道灌山の出来事であったともいえるのである。更に一歩を進めて言えば、爾来《じらい》居士の歿年である明治三十五年までおよそ六年間の両者の間の交遊は寧ろその道灌山の出来事の連続であったともいえるのである。かつて碧梧桐君は「居士は虚子が一番好きであったのだ。」と言った。居士が最後の息を引き取った時枕頭に在った母堂は折節共に夜伽《よとぎ》をせられていた鷹見氏の令夫人を顧みて「升は一番|清《きよ》さんが好きであったものだから、なにかというと清さんにお世話になりました。」と言われた。余はそう言って泣かれた母堂を見てただ黙って坐っていた。余は此の碧梧桐君の言も母堂の言も決して否認しようとは思わぬ、実際居士は最も深く余を愛していてくれたように思われる。余もまた何人よりも一番深く居士を信頼していた。居士の言行は一に余の脳裏に烙印《やきいん》せられていて今もなお忘れようとしても忘れることは出来ぬのである。それにかかわらず道灌山以来余と居士との間にはどうすることも出来ぬある物が常に常に存在していたという事はまた止むを得ぬ事であった。
明治二十九年に入って後ち居士の腰痛は緩んだり激しくなったりした。そうしてそれが遂に僂麻質斯《りうまちす》でなくて結核性の脊髄炎であると判ったのは三月の中旬の事であった。この時居士が折節帰省中であった余に与えた手紙は面白い消息を伝えておる。少し長いけれどもそれをここに載することにする。
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「貴兄驚き給うか。僕は自ら驚きたり。今日の夕暮ゆくりなくも初対面の医師に驚かされぬ。医師は言えり。この病は僂麻質斯にあらずと。
歩行し得ざる事ここに五旬、体温高き時は三十九度に上り低き時は三十五度七分に下《くだ》る。たちまち寒くして粟《あわ》肌に満ち、たちまち熱くして汗胸を濡《うる》おす。しかも
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