者がなければ空になってしまう。御承知の通り自分には子供がない。親戚に子供は多いけれどそれは大方自分とは志を異にしている。そこでお前は迷惑か知らぬけれど、自分はお前を後継者と心に極めて居る。が、どうも学校退学後のお前の容子を見ると少しも落着きがない。それもよく見ておるとお前一人の時はそれほどでもないが秉公――碧梧桐――と一緒になるとたちまち駄目になってしまうように思う。どちらが悪いという事もあるまいが、要するに二人一緒になるという事がいけないのである。それでこれからは断じて別居をして、静かに学問をする工夫をおし。出来ない人ならば私《あし》は初めから勧めはしない。遣れば出来る人だと思うからいうのである。」
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 こんな意味の事であった。余はこの日かく改まった委嘱《いしょく》を受けようとは予期しなかったので、少し面食《めんくら》いながらも、謹んでその話を聴いていた。かくの如き委嘱は余に取って少なからざる光栄と感じながらも、果して余にそれに背かぬような仕事が出来るかどうか。余は寧ろ此の話を聴きながら身に余る重い負担を双肩に荷わされたような窮屈さを感じないわけには行かなかった。けれどもこの時の余は、截然《せつぜん》としてその委託を謝絶するほどの勇気もなかった。余はただぼんやりとそれを聴きながらただ点頭《うなず》いていた。
 その夜は蚊帳《かや》の中に這入《はい》ってからも居士は興奮していて容易に眠むれそうにもなかった。当日の居士の句に、
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蚊帳に入りて眠むがる人の別れかな
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とかいうのがあったかと思う。余は蚊帳に入ると殆ど居士の話も耳に入らぬように睡ってしまった。
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 須磨にて虚子の東帰を送る
贈るべき扇も持たずうき別れ  子規
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 余は此の句に送られて東《ひがし》に帰った。
 居士の保養院に於ける言葉はその後余の心の重荷であった。そこで余は帰東早々これを碧梧桐君に話し、早稲田専門学校に坪内先生のセークスピヤの講義を聴くことをも一つの目的として高田馬場のある家に寓居を卜した。此の家はもと死んだ古白君の長く仮寓していた家であったという事が余をしてこの家を卜せしむるに至った主な原因であった。
 専門学校の入学試験は容易であったが、不幸にして坪内先生の講義はセークスピヤでなくてウォーズウォースであった。そのウォーズウォースの講義は少しも余の興味を牽《ひ》かなかった。その他に在っては大西|祝《はじめ》先生の心理学の講義を面白いと思ったが、それ以外には興味を呼ぶものがなかった。初めはつとめて登校していたが、それも漸く欠席勝になってしまった。此の明治二十八年の九月に専門学校の文科に這入った同期生は三、四十人であったかと思うが、余はそれらの人の名前を一人も記憶しておらぬ。その中には今の文壇に在って高名な人もあるのであろうが今までそれを取しらべて見たこともない。入学試験の時余は答案を誰よりも早く出して、その尻に一句ずつ俳句を書いた。その当時の余には賤《いや》しむべき一種の客気があって専門学校などは眼中にないのだというような見識をその答案の端にぶらさげたかったのである。初めより真面目に課程を没頭する気はなかったのである。
 それと同時に羯南氏の紹介で余は『日本人』紙上に俳句の選をし俳話を連載することになった。後年『俳句入門』に収録したものは此の『日本人』に連載した俳話が主なるものであった。
 一方に子規居士は須磨に在って静養の傍《かたわ》ら読書や執筆やに日を送った。『日本新聞』に連載しつつあった「養痾雑記《ようあざっき》」は遂に蕪村の評論に及んでそれはそれのみ切り放して見ることの出来る一の長篇となった。後年俳諧叢書の一冊として出版した『俳人蕪村』がこれである。余の方からは鳴雪翁、碧梧桐君らと会合して作った句稿などを送ると居士はそれに詳細な評論を加えてかえして来たり、またその近況を報ずる書面のうちに御承知の保養院の何番にいた病人は病状が悪くって家に引取ったとか、お前の帰った後に僕の部屋附きの女中となった何某《なにがし》という女にこの頃は習字を教えているというようなことも書いてあった。
 居士の俳句に於ける努力は大分前からの事であるし、『日本新聞』紙上に新俳句を鼓吹したことも二十六、七年からの事であったが、陣容が漸く整うて世人の注目を牽《ひ》くようになったのは実に此の『俳人蕪村』を以って始まると言っていいのである。それから須磨を引上げて松山に帰省してからは、折節松山中学校に教鞭《きょうべん》を取りつつあった夏目漱石氏の寓居に同居し、極堂《きょくどう》、愛松《あいしょう》、叟柳《そうりゅう》、狸伴《りはん》、霽月《せいげつ》、不迷《ふめい》、一宿《
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