かんちょう》を試むるようになった。居士はその時余を手招きして医師は今何をしたかと聞いた。それが滋養灌腸であることを話した時に居士は少し驚いたようであった。その後《のち》になって居士は当時の心持を余に話したことがあった。
「滋養灌腸と聞いた時には少し驚いたよ。何にせよ遼東から帰りの船中で咯血し始めたので甲板に出られる間は海の中に吐いていたけれど、寝たっきりになってからは何処《どこ》にも吐く処がない、仕方がないから皆呑み込んでしまっていたのさ。それですっかり胃を悪くして何にも食う気がなくなってしまった。私は咯血さえ止まればいいとその方の事ばかり考えていたので、厭な牛乳なんか飲まなくっても大丈夫だと思っていたのだが、滋養灌腸を遣られた時にはそんなにしてまで営養を取らなけりゃならんほど切迫していたのかとちょっと驚かされたよ。」
実際、これで滋養灌腸が旨《うま》く収まらなかったら、駄目《だめ》かも知れぬと医者は悲観していた。が、幸なことには居士はその以後|力《つと》めて栄養物を取るような傾きが出来て来た。
医師から今晩は特に気を附けなければならんと言われた心細かった一夜は無事にしらしらと白らんだ。恐らくその晩が病の峠であったろう。前日少し牛乳を取ったためであろうか、その暁の血色は今までよりはいくらかいいようであった。その日から咯血もやや間遠になって来た。
それから居士の母堂を伴って碧梧桐君が東京より来、大原氏――居士の叔父《しゅくふ》――が松山より見えるようになった頃は居士の病気もだんだんといい方に向っていた。
病床の一番の慰めは食物であった。碧梧桐君と余とが毎朝代り合って山手の苺《いちご》畑に苺を摘みに行ってそれを病床に齎《もた》らすことなども欠くべからざる日課の一つであった。戦地や大本営に往還《ゆきかえり》の日本新聞記者や他の社の従軍記者なども時に病床を見舞って自由に談話を交換するようになった。鼠骨君も京都から来てある期間は看護に加わり枕頭で談笑することなども珍らしくはなかった。
いよいよもう大丈夫と極ってから大原氏は松山にかえり、碧梧桐君は母堂を伴って東京にかえり、後に残るものは、また余一人となった。急に淋しくはなったけれども、もう以前のように心細いことはなかった。癪に障っていた附添婦とも病室が晴れやかになるに従い親しくなった。依然として執拗《しつよう》な処はあったけれども、漸く親しくなって見るとこれもまた老いたる憐れなる善人であった。
居士は車に乗って黄塔君の宅に出掛けた。余はその車に跟《つ》いて行きながら万一を心配したが、それも無事であった。黄塔君と三人で静に半日を語り明して帰った。
いよいよ須磨の保養院に転地するようになったのはそれから間もないことであった。病院を出て停車場に行く途中で、帽のなかった居士は一個のヘルメット形の帽子を買った。病後のやつれた顔に髯《ひげ》を蓄え、それにヘルメット形の帽子を被った居士の風采は今までとは全然異った印象を余に与えた。
保養院に於ける居士は再生の悦びに充ち満ちていた。何の雲翳《うんえい》もなく、洋々たる前途の希望の光りに輝いていた居士は、これを嵐山清遊の時に見たのであったが、たとい病余の身であるにしても、一度危き死の手を逃れて再生の悦びに浸っていた居士はこれを保養院時代に見るのであった。我らは松原を通って波打際に出た。其処《そこ》には夢のような静かな波が寄せていた。塩焼く海士の煙も遠く真直ぐに立騰《たちのぼ》っていた。眠るような一帆《いっぱん》はいつまでも淡路の島陰にあった。
ある時は須磨寺に遊んで敦盛蕎麦《あつもりそば》を食った。居士の健啖《けんたん》は最早余の及ぶところではなかった。
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人も無し木陰の椅子《いす》の散松葉 子規
涼しさや松の落葉の欄による 虚子
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などというのはその頃の実景であった。初め居士の神戸病院に入院したのは卯の花の咲いている頃であったが、今日はもう単衣を着て松の落葉の欄によるのに快適な頃であった。居士がヘルメット形の帽子を被って単衣の下にネルのシャツを来て余を拉《らっ》して松原を散歩するのは朝夕《ちょうせき》の事であった。余はかくの如く二、三日を居士と共に過ぐしていよいよ帰東することになった。
いよいよ明朝出発するという前の日の夕飯に居士は一つか二つか特別の皿をあつらえた。それから居士は改まって次のような意味の事を余に話した。
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「今度の病気の介抱の恩は長く忘れん。幸に自分は一命を取りとめたが、しかし今後幾年生きる命かそれは自分にも判らん。要するに長い前途を頼むことは出来んと思う。それにつけて自分は後継者という事を常に考えて居る。折角《せっかく》自分の遣りかけた仕事も後継
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