古白君歿後暫くして余は京都に行った。あたかもそれは内国博覧会の開設中で疏水の横に沢山の売店が並んでいた光景などが目に浮ぶ。
 京都には鼠骨《そこつ》君がいた。鼠骨君はその頃吉田神社前の大原という下宿にいたので余は暫く其処《そこ》に同居していた。
 その時突として一つの電報が余の手に落ちた。それは日本新聞社長の陸羯南《くがかつなん》氏から発したもので、子規居士が病気で神戸病院に入院しているから余に介抱に行けという意味のものであった。

    十

 神戸の病院に行って病室の番号を聞いて心を躍らせながらその病室の戸を開けて見ると、室内は闃《げき》として、子規居士が独り寝台《ねだい》の上に横わっているばかりであった。余は進んでその傍に立って、もし眠っているのかも知れぬと思って、壁の方を向いている居士の顔を覗《のぞ》き込んだが、居士は眠っていたのではなかった。透明なように青白く、全く血の気がなくなってしまっているかと思われるような居士は死んだものの如く静かに横臥《おうが》しているのであった。居士は眼を瞠《みひら》いて余を見たがものを言わなかった。余も暫く黙っていたが、
「升《のぼ》さん、どうおした。」と聞いた。この時余の顔と居士の顔とは三尺位の距離ほかなかったのであるが、更に居士は余を手招きした。手招きと言ったところで、けだるそうに布団の上に投げかけている手を少し上げて僅に指を動かしたのであった。余はその意をさとって居士の口許に耳を遣ると、居士は聞き取れぬ位の声で囁《ささや》くように言った。
「血を吐くから物を言ってはいかんのじゃ。動いてもいかんのじゃ。」
 たちまち余の鼻を打ったのは血なま臭い匂いであった。居士の口中からともなく布団の中からともなく一種の臭気が人を襲うように広がった。余は憮然《ぶぜん》として立ちすくんだ。
 その時余の後ろに立ったのは五十近い附添婦であった。余の室に這入った時たまたま外に在った附添婦は手に一つのコップを持って帰って来たのであった。居士は間もなく激しい咳嗽《がいそう》と共にそのコップに半分位の血を吐いた。そういう事は一日に数回あった。その度附添婦はその赤いものに充たされたコップを戸外に持って行ってはそれを潔《きよ》めて帰って来た。時に枕《まくら》切れなどを汚すことがあるとそれも注意して取りかえたが、それでも例の血なま臭い匂いは常に室内に充ちていた。
 この病院の副院長は江馬《えま》医学士であった。これは江馬|天江《てんこう》翁の令息であって、自然羯南氏から天江翁を通じて特別に依頼でもあったのであろう、常に注意深く居士を見舞っていた。余が初めて医局に同氏を尋ねて病状を聞いた時、氏は眉をひそめて、
「少しも滋養物が摂《と》れぬので一番困ります。」と言った。居士は匙《さじ》の牛乳をも摂取せぬことが既に幾日か続いているのであった。碧梧桐君の令兄の竹村|黄塔《こうとう》君は師範学校の教授をしてこの地に在住してるので朝暮《ちょうぼ》病室に居士を見舞った。
「お前が来ておくれたので安心した。」殆ど居士の生死《しょうし》を一人で背負っていたかのような感があった黄塔君は、重荷を卸《おろ》したような顔をして余に言った。それから入院費用の事やその他万般に就いて日本新聞社から依頼されていた事を黄塔君はすべて余に一任した。余は病床日誌と金銭出納簿とを拵《こしら》えて、それに俳句を書くような大きなぞんざいな字で、咯血の度数や小遣の出入《でいり》を書いた。
 附添婦というのが、あばずれた上方女であって、世間的の応対に初心であった余を頭から馬鹿にしてかかった。病室で喫煙することを厳禁したが彼女は平気で長い煙管《きせる》でスパスパと遣った。
 どうしても咯血がとまらぬので氷嚢《ひょうのう》で肺部を冷し詰めたために其処《そこ》に凍傷を起こした。ある一人の若い医師が来て見て、
「こんな馬鹿をしては凍傷を起こすのは当然だ。いくらあせったって止まる時が来なけりゃ血はとまりゃしない。出るだけ出して置けば止まる時に止まる。」
 この言葉は頗《すこぶ》る居士の気に入ったらしく病み衰えた顔に珍らしく会心の笑を洩らした。実は医師の言ったよりも大分極度に氷を用いていたので、しかも下にガーゼも何も当てないで直接に氷嚢を皮膚に押しつけるようなことをしてこの凍傷を起こしたのであって、それも居士の発意に基いてやったのであったが、此の若い医師の言葉はすべてそれらの神経的な小細工な遣り口を嘲笑して遺すところがなかった。その後居士は少しも病気についてあせる容子《ようす》を見せず、安然としてただ平臥していた。
 けれども困った事はいつまで経っても営養物を取らない事であった。余や附添婦がかたみ代りに勧めても首を振って用いなかった。仕方がないので遂に医師は滋養|灌腸《
前へ 次へ
全27ページ中11ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
高浜 虚子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング