に帝劇という異色を認むるものがなくなったが、夜になると、この電灯が沢山ともっているという事だけでも、せめてそこが劇場であることを思わしめるに足る。
 今まで見て居った芝居の事を思うて見るが、何も頭に残って居らぬ。ただ眼が疲労を感じて痛むばかりである。
 今から一五、六年前に帝劇が工事を起して、鉄をたたく鎚の音が盛んに響いている時分、私は或人に案内せられてその中にはいって見た。あぶない足場を渡りながら、およそこれが舞台、これが楽屋という説明を聞いた。そうしてそこを出てすぐ隣の女優養成所にも案内せられた。そこで女優の舞踊や芝居のおさらえを見た。森律子、村田嘉久子、初瀬浪子、河村菊江、鈴木徳子などという名を覚えた。それらの人々は何れもまだ二十歳ばかりの娘盛りであった。
 それから森律子は同郷の森肇氏の令嬢というので、二、三度逢った。それに鈴木徳子には私の友人が知り合いであったので二、三度引き逢わされた。
 帝劇の工事が竣成して花々しく開場した時には私も賓客の一人として招待された。赤いじゅうたんをしき詰めた階段の上を皆が恐る恐る踏んだ。中に物なれた素振りで平気で闊歩するらしく見える人もひそかに
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