世話をして男は出て行く。小便をしたものであろう。この男の姿は見えないが三菱地所部に使用しているものか、若《もし》くはどこかの事務室の小使でもあろうか。
 私はこの便所でゆっくりと用をたしていると、忽ち隣の便所の戸をはげしくたたいて、甲高いヒステリックな声で、
「上《あが》ってしてはいけません、下《お》りてなさい、下《お》りてなさいってば。」怒鳴る者があった。これはかの「おはようございます。」と男にやさしい声を掛けていた掃除婦の声であることが分った。
 上へ上《あが》ってしてはいけないということは(それはこのビルデングの開館した初めに、チャンとこの便所のドアに張りつけてあった禁則であった。)わかっている筈なのに、だれかが日本便所のように上に上ってしていたものと見える。
 女は寒い時分でも額に汗を流さんばかりに忠実に掃除をしている。かつて当事者の話を聞いた事がある。それは、「この便所も少し油断をするとすぐきたなくなる。不浄を周囲に垂らす者がある。たまには落書をするものがある。又御苦労にも便所につるしてある紙をまるめて穴の中にごし/\突っ込んでいる者などがある。併しそれをとがめるよりも、先に
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